
「みんなと同じが、どうしてもできなかった。」
野球が当たり前の大阪の公立小学校で、少年・大畑大介は“誰もやっていないこと”に挑むことを選んだ。足の速さを武器に、小学3年生でラグビースクールに入門。
周囲に仲間はいない、テレビの話題にも入れない、片道1時間の道のり。それでも彼にとって、それが「最初の本気の挑戦」だった。
高校では真っ白な上履きに「全国制覇」と「高校日本代表」と書き、自らを追い込みながらチームを牽引。大学でも「練習量で勝負」する環境の中で心と身体を磨き上げ、日本を代表するラガーマンへと成長していく。
本インタビューでは、ラグビーを始めたきっかけから、モチベーションの源、仲間との関係、大ケガを乗り越える思考法まで、大畑大介が語る“挑戦の軌跡”をたどります。
[挑戦]
━━現役時代に直面した最も困難な挑戦は何でしたか?
僕にとって、一番のチャレンジはラグビーをやると決めたことですね。
大阪生まれ大阪育ちの公立小学校で、周りの子たちはみんな野球をやっていて、応援するのは阪神タイガースが当たり前でした。でも、僕はその環境の中でなじめず、みんなと同じことをするのが苦手なタイプで、なかなか仲間に入ることができなかったんです。
それなら、みんなが興味を持ってくれるようなことをやってみようと思いました。みんながやっていないことで、注目される存在になれたらいいなと。
僕は足が速かったので、野球以外で誰もやってないスポーツに挑戦をしようと決めました。父がラグビーをやっていたこともあって、当時は成人の日(1月15日)に日本選手権が開催されるなど、「冬といえばラグビー」という時代でした。
周りにラグビーをやっている人はいませんでしたが、小学校3年生のときにラグビースクールに通い始めました。電車で1時間かけて通っていましたが、このスクールに通う一歩こそが、僕にとって一番の挑戦だったと思います。
━━子供にとってはかなり遠いですね
そうですね。週1回、日曜日に通っていました。
当時、テレビアニメの「キン肉マン」が放送されていて、月曜日は学校でその話題で盛り上がるんですが、僕はラグビースクールに通っていたので観られず、友達との距離がさらに開いていったんですよね。
━━ここまでのキャリアの中で、最も影響を受けた指導者やコーチは誰ですか?彼らから学んだ最も重要な教訓は何ですか?
どの年代でも、指導してくれた方々からたくさんの影響を受けました。その中でも特に成長させてもらえたという意味では、高校時代(東海大仰星)の土井崇司監督と、大学時代(京都産業大)の大西健監督ですね。
高校時代は、とにかく厳しい練習が当たり前でした。当時の東海大仰星は強化が始まったばかりで、府内でも5~6番手くらいの実力しかなかったんですが、土井監督から「フィジカルで劣るなら、頭を使ってラグビーしろ」と教えられました。
その言葉がきっかけで、どうやったら成長できるか、自分の強みは何なのかをしっかり考えるきっかになりましたね。

━━大学時代も厳しい環境だったのですね
そうですね。京都産業大は、トッププレイヤーがたくさんいるわけではなかったので、「練習量で勝負しよう」というスタイルでした。
苦しい状況の中でどう乗り越えるのかを学びましたし、フィジカル的な強さや精神力の強さはこの時代に鍛えられました。
━━当時の東海大仰星は今ほどのトップレベルではありませんでした。その中で進学を選んだ理由は?
僕は中学時代は無名でしたので、どこの高校からも声がかからない選手でした。
そのとき「高校に入ったら自分はどうなりたいか」を考えました。もし強豪校に入ったらどうなるんだろう?と。トップレベルの学校に行ったら、実力も根性もない自分が勘違いしてしまうんじゃないかと思ったんです。
憧れの強いチームに入ったことで満足してしまうんじゃないか、と。それじゃ意味がないなと感じました。当時の僕はラグビーを通じて、本当の意味で自信をつけたかったんです。
僕にとっての自信は「自分が成長すること」、そして「その成長がチームに大きな影響を与えること」、つまりレギュラーになってチームを強くすることでした。
強豪校だとチームはすでに完成されている。でも、そういう出来上がったチームに入るより、壁にぶつかりながら自分の成長と共にチームを強くして、壁を乗り越える経験を積んだ方が、きっと自分の力になる。と思っていました。
自分が入って壁を乗り越えられるチームはどこか?そう考えたときに仰星が自分に合っていると感じました。

[自己マネジメント]
━━中学時代にそこまで考えていたんですね。将来はラグビーで生きていこうと思っていましたか?
いや、そんなことは全然なかったですよ。うちの親父は商売をしていたので、僕を鍵っ子にしたくなかったみたいなんです。
親に迷惑をかけたくないから、一人で遊ぶことが多かったですね。そのせいか何かを選ぶときも、基本的に自分で決めて答えを出すタイプでした。人に何かを委ねるのが嫌で、自分で考えて動く、ただそれだけだったと思います。
━━高校に入ったとき、周囲はすごい選手ばかりでしたよね
そうですね。僕は完全に序列が一番下でした。でもそのとき、真っ白だった学校の上履きの右足にチームの目標として「全国制覇」、左足には自身の目標として「高校日本代表」と書いたんです。
チームとしても個人としても、日本一になりたかったから。先生にも怒られ、友達からも「アホちゃうか」と言われました(笑)。でも僕は先生にこう言いました。
「僕はメンタルが弱いんです。卒業する3年後になりたい自分の目標を常に目に届くところに置いておきたいんです。毎朝下駄箱を開けたときに、この文字が目に飛び込んできくるし、みんなにも見られるので、もしできなかったら恥ずかしい。
でも先生から見て、僕がこの目標から逃げていたら言ってください。そのときは真っ白のやつに買い換えます」と。
そうしたら先生も「そこまで言うならやってみろ」と許してくれました。
━━周囲との温度差はありましたか
仰星ラグビー部は府内のトップチームではなかったので「トップになりたい」というモチベーションがすごく高かったんです。
だから必死だったし、雰囲気としてまとまっていましたね。でも、たまに練習に身が入っていない選手には「そんなんだったら帰れ!」と言ったこともありました。
でも、そのあたりは当時のキャプテンがうまくまとめてくれましたね。
━━競技生活の中で、どのようにしてモチベーションを維持し続けていましたか?
僕はラグビーを背負っていると思っていました。ラグビーは、子供の頃にみんなと同じことが出来ない僕を認めてくれた競技なので、それを否定されたくなかったんです。
「アスリート大畑大介として、ラガーマン大畑大介として知ってもらいたい」。それがモチベーションでした。
━━スポーツマンNo.1決定戦ではずば抜けた身体能力が印象的でしたが、ラグビーの第一人者としての気持ちで臨まれていたのでしょうか
そうですね。当時はラグビーW杯でもまだ結果を出せていなかったので、ラグビーを背負って勝負する気持ちは強かったです。
ラグビーは、マイナーなスポーツの中ではメジャーだけど、メジャーなスポーツの中ではマイナーな競技なんですよね。プロリーグでもないし、オリンピック競技でもなかったから、ちょっと中途半端な立ち位置でしたよね。
だからこそ、あの企画で結果を出したかった。勝てばラグビーの知名度が上がるし、負ければ競技の格が下がるかもしれない。そんな思いで挑みました。
━━あのときの活躍はすごく記憶に残っています
実は番組に推薦してくれたのは、プロ野球ヤクルトスワローズの古田敦也さんだったんです。
オープニングの撮影のとき、出演者の前で「こいつすごいやつだから優勝するから」って紹介されて(笑)。古田さん、なにを言うねんと!」と思いましたね。でも古田さんの顔に泥を塗るわけにはいかないので、より気合いを入れて頑張りました。
━━影響力は大きかったですか
当時、ラグビー選手って試合会場でプレーを見てもらって、名前と顔を知ってもらうのが普通だったんですが、あの番組をきっかけに有名になった選手って僕くらいじゃないでしょうか。
番組の放送が元日で、直近の試合が1月3日だったのですが、すぐに試合会場のお客さんが激増した感じはまだなかったですね。今みたいにSNSとかなかったので、大畑大介という人間を調べるのに時間がかかったのかもしれません。
でも、ちょうど1カ月後のバレンタインデーがすごかったですね。「ラグビー場にこんなに多くの女性に来てもらえるんだ」と驚きました。人が多すぎて、身動きとれなくて、試合後、帰れないくらいでした。
当時は会社員でもあったので、会社のおやつは僕にファンから贈られたのチョコレートのお裾分けでした(笑)。
東京で試合を終えて、神戸に新幹線で帰るとき、チームメイトが「大介、おやつちょうだい」と僕のところに来たのでお裾分けしたら、それが入浴剤で…。「かじってしまった」と、怒られました(笑)。

━━現役時代はケガとの闘いも大変だったと思いますが、大ケガから復活できた秘訣は何だったのでしょうか
ずっと「こんなケガをして戻ってきたやつはいないよな」と思い続けていました。
もう1人の自分が、遠くから自分を見てるような感覚で、「これで戻れたらかっこいいだろうな」とか、そんな風に想像しながら過ごしていました。ケガをすると、どうしてもいろいろ考えすぎてしまうんです。
ケガをするとは過去のケガする前の自分のことを良く思いがちなので「ケガしたこと=マイナス100」くらいの感覚でした。そうなると、少し回復しても「まだマイナス50」くらいで、ケガする前の自分に戻るまでずっとマイナスのまま。それじゃダメだと思って、考え方を変えました。
「ケガをした時点をゼロにする」。歩けるようになったらプラス、練習ができるようになったら更にプラス、という加点方式にしていきました。そうすることで、精神的なストレスはかなり減りましたし、リハビル中も気持ちが沈むことなく前を向けました。
自分の心のポイントをどこに置くかを意識することで、ケガからの復活も前向きに取り組めたんだと思います。
次回、「大畑大介 後編 「誰もやっていない道を選ぶ」──大畑大介が語る、挑戦と成長の原点」5月21日公開予定
〈プロフィール〉

大畑大介(おおはた だいすけ)
1975年11月11日生まれ、大阪府大阪市出身の元ラグビー日本代表選手。東海大学付属仰星高等学校、京都産業大学を経て、1998年に神戸製鋼へ入社。
日本代表として58キャップを獲得し、69トライの世界記録を樹立。1999年、2003年のワールドカップに出場し、日本代表の中心選手として活躍。2006年にはアジア選手権で主将を務めた。
怪我と向き合いながらも不屈の精神でプレーを続け、2011年に現役引退。2016年にはワールドラグビー殿堂入りを果たし、現在はラグビーアンバサダーとしてスポーツ振興や地域活性化に尽力している。