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松井稼頭央インタビュー 前編「壁を超え続ける覚悟」PL学園からメジャー挑戦へ

@日刊スポーツ

「挑戦し続けること。」

それは松井稼頭央の野球人生を貫いてきたキーワードだ。

幼少期から抜群の運動神経を誇り、PL学園では投手として名を馳せた。しかしプロ入り後はショートへの転向、さらに前例の少ないスイッチヒッターへの挑戦と、常に新しい壁と向き合ってきた。

時にケガに苦しみながらも、持ち前のスピードと技術を磨き続け、2002年にはトリプルスリーを達成。2003年には夢だったメジャー挑戦を果たし、世界の舞台でもその存在感を示した。

多くの挑戦を重ねる中で支えとなったのは、「野球が好き」という純粋な思いと、指導者や仲間への深い感謝の気持ちだった。

本インタビューでは、PL学園での原点、スイッチヒッターとしての苦闘、メジャー挑戦、そして次世代へ託す思いに迫った。


【挑戦の連続だった現役時代】

━━現役時代に直面した最も困難な挑戦は何でしたか

常に挑戦の連続でしたね。

高校時代は投手としてプレーしていましたが、プロ入り後はショートに転向しました。それも大きな変化でしたが、やはり一番の挑戦は「スイッチヒッターへの転向」でした。プロ3年目から本格的に左打席に取り組み始めましたが、それまで左で打った経験は全くありませんでした。

周囲からは「いつから両打をやっていたの?」と聞かれることが多く、もっと前からやっているイメージを持たれていて、実際は3年目からと言うと驚かれることもありました。このスイッチヒッターへの転向が最も大きな挑戦でした。

━━左打ちは全く初めてだったのですか

左右のバランスを整える目的で、左で素振りをすることはありましたが、実際に左打席に立ってボールを打つのは初めてでした。

当然、最初からうまくいくはずもなく、右とは全く違う感覚に戸惑いましたね。でも「苦労」とは思わず、なんとか結果を出そうと必死でした。当時は、土井正博打撃コーチや福本豊さんからご指導いただきました。

福本さんはスイッチヒッターではありませんでしたが、太いグリップの「タイカップ型」のバットを使っていたので、その扱い方などを教えていただきました。その他にもスイッチヒッターである元広島東洋カープの高橋慶彦さんにもアドバイスをいただきましたね。

━━最も影響を受けた指導者やコーチと、その方から学んだ最も重要な教訓を教えてください

やはり、元西武ライオンズ監督の東尾修さんですね。東尾さんがいなければ、今の僕はないと言っても過言ではありません。

スイッチヒッターとしての挑戦を始めたばかりの頃も、結果がすぐ出ない中で我慢強く起用し続けてくださいました。「この人のために、なんとか結果を出したい」と思ってプレーしていたのを覚えています。

当時打撃コーチだった土井正博さんにも“大きく育てて”いただきました。

スイッチヒッターの基本的な戦法として、足の速さを活かして三遊間に転がすという考え方がありますが、土井さんからは「振らないと覚えない。ストライクと思った球は全部振って来なさい」と言っていただきました。

その言葉で気持ちが楽になりましたね。ストライクだと思えば、高めや低めの球もどんどん振っていましたが、土井さんから注意されることはありませんでした。細かいことよりもまずは“思い切りよく振ること”を優先してくださったことが、今でも印象に残っています。

━━技術云々ではなくて、ということですね

そうですね。スイッチヒッターを始めた当初、左打席では利き手の右が投手側にあるので、まずはデッドボールの避け方から教わりました。

万が一ボールを受けても大きなケガにならないように、避ける技術です。右側に薄いスポンジの防具をつけて、東尾さんに実際に投げていただき、避ける練習をしました。

@日刊スポーツ


【PL学園での原点】

━━PL学園時代は厳しい環境で鍛えられましたよね

厳しい環境で過ごせたことが、自分にとって大きな成長に繋がり、すごく良かったです。

寮生活では、先輩後輩の関係も学べましたし、それまでは自分で炊事や洗濯をすることもなかったので、野球だけでなく、生活全般を経験できたことが大きかったです。

学生時代に厳しい環境を経験していた分、プロに入ってからの練習も寮生活も、むしろ楽に感じることができました。

━━1年生からメンバーには入っていましたよね

そうですね。一度、登板させてもらったくらいでしたが。

━━すごい選手が多い中で自信はありましたか

知っている選手が多かったのですが、「負ける」という感じはなくて、「これなら甲子園に行けるのではないか!」という楽しみのほうが大きかったです。

━━高校時代は投手としても野手としても実績を残されたと思いますが、当時はどちらがいい、というのはありましたか

高校時代は完全に投手でしたね。野手の経験はほとんどありませんでした。打撃練習なんて大会の2週前にようやく始めるくらいで、それまでは走り込みと投球練習に集中していました。

走塁練習でも、投手は手をケガできないので、牽制で1塁へ帰塁する時、足からスライディングしていたくらいです。プロに入ってから、初めてヘッドスライディングをする練習をしたんですが…、やり方が分からないくらいのレベルでした(笑)。

━━高校時代やプロ入り後、「化け物だ」と思った選手はいましたか

プロ2年目の時に、ハワイキャンプに抜擢されたのですが、そこで同じショートとして一緒に練習をさせてもらった奈良原浩さんですね。

ボールを捕ってから投げるまでの速さに、とにかく衝撃を受けました。「これがプロの一軍か」と圧倒されましたね。ボールへの入り方、ステップ、グラブさばきなども含めて、すべてが段違いでした。

「見て盗みなさい」と言われていたので、いろんな選手のプレーを観察することが好きになりました。見ては真似して、練習してみて…その繰り返しでした。

━━子供の頃から足は速かったですか

速かったですね。運動神経には自信がありました。

中学入学時に身長が150センチしかなかったんですが、体格で負けても足の速さや肩の強さは負けないという自信はありました。


【自己マネジメントと競技への向き合い方】

━━プロの世界を具体的に目指すようになったのはいつ頃からでしょうか

小・中学生の頃から「プロになりたい」という夢はずっと持っていました。高校に入ってから、本気でプロを目指すようになりました。

でも甲子園には2年生の春の選抜しか出ていませんし、ケガも多かったので、プロのスカウトの目に留まっていないんじゃないか…という不安もありましたし、高校3年生の時には、「プロは難しいかもしれない」と感じていました。

━━競技生活の中で、どのようにしてモチベーションを維持し続けていましたか

やっぱり「野球が好き」という気持ちが一番ですね。

ずっと「もっとうまくなりたい」と思っていました。やるからには、もっと打ちたい、もっと成長したいという気持ちが強かったです。

━━バラエティ番組『筋肉番付』では、ずば抜けた身体能力が印象的でした。どんな気持ちで挑んでいましたか

実は僕、代役だったんです。西武の選手で出演予定だった方が治療に専念することになって、代わりに出演することになりました。

━━野球をあまり見ない人も目にしたかもしれません。影響力は大きかったですか

かなり変わりましたね。「筋肉番付の人」として街で声をかけられることが増えました(笑)。明らかに反響が大きかったです。

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【ケガとの向き合い方と継続の力】

━━高校時代も含めて、現役時代はケガとの闘いでもあったと思います。大ケガをしても立ち上がれた秘訣は何だったのでしょうか

これもやっぱり「野球が好きだから」に尽きると思います。

僕の場合は腰の不調で、手術ではなく、急に痛みが出るタイプでした。毎年1回は出るので、そのたびに治療に行っていました。チームのトレーナーに診てもらうのが一番ですが、首脳陣に報告がいくので、自分で探して通うこともありました。

高校時代は肘の亀裂骨折もありました。筋力がついてきたのに骨が追いつかず、亀裂が入ってしまったんです。春や秋の大会前になるとケガをしてしまって…。このメンバーで甲子園に行きたいという気持ちが強かったので、すごくもどかしかったです。


【トリプルスリー達成の裏側】

━━スイッチヒッターとして打撃も守備も圧巻でした。2002年には打率3割3分2厘、36本塁打、33盗塁のトリプルスリーも達成されましたね

本塁打30本なんて、打てるわけないと思っていました。最初の頃は1ケタでしたし。

1999年に15本打って、「次は20本を目指したい」と思うようになり、2000年に23本打って、次は「30本を打ってみたい」と。20本から30本は未知の世界でした。30本となると、もうホームラン打者ですからね。その差をどう埋めるか、すごく考えました。

当時大阪近鉄バファローズにいた中村紀洋さんに「どうやったら30本打てますか?」と聞きに行ったこともあります。左打席の時、後ろにくる左手がすごく大事だと教えてもらって、それまでその感覚がなかったので意識するようになりました。

右打席では後ろの手が右なので分かるんですが、左打席では左半身で打っているような感覚になっていたんです。

松井稼頭央インタビュー 後編「壁を超え続ける覚悟」PL学園からメジャー挑戦へ 10月20日掲載予定


〈プロフィール〉

@スポーツバックス

松井 稼頭央(まつい かずお)

1975年10月23日生まれ。日本の元プロ野球選手で、ポジションは内野手(主に遊撃手/二塁手)。右投両打。

大阪府出身。PL学園高等学校では投手として活躍し、プロ入り後に遊撃手へ転向。さらにプロ3年目からスイッチヒッターに本格挑戦し、走攻守三拍子のスタイルを確立した。2002年には打率.332、36本塁打、33盗塁でトリプルスリーを達成。

2003年にメジャー挑戦を表明し、MLBニューヨーク・メッツへ移籍。以後も米国でプレーし、日本とは異なる環境下でも結果を求められる「助っ人」としての役割を全うした。日本代表にも選出され、大舞台の重圧と向き合いながらチームに貢献。

帰国後はチームの中心として若手を牽引し、キャプテンとしても存在感を発揮。

FPメディア編集部

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