松井稼頭央インタビュー 前編「壁を超え続ける覚悟」PL学園からメジャー挑戦への後編です。

@日刊スポーツ
[海外挑戦とメジャーでの経験]
-2003年にはMLBのメッツに移籍されました。いつかはメジャーへという気持ちはありましたか
ありましたね。日米野球を経験したことが大きかったです。
1996年、1998年、2002年と出場して、2002年の出場時には右打席でも左打席でも本塁打を打てたんです。その時に「メジャーで勝負してみたい」と強く思いました。
-イチローさんの活躍などがあった時代でしたが、メジャー挑戦は困難もあったと思います
FA(フリーエージェント)のタイミングでどうするかですよね。日本に残るか、メジャーに挑戦するか。
僕は28歳でFA権を取得したので、「行くなら今しかない」と思いました。行かない後悔より、行って後悔したほうがいい。もちろん、メジャーからオファーが来るかどうかは分からない。
でも、挑戦したい気持ちはありました。世界各国から最高峰の選手が集まる舞台に、自分も立ってみたいという思いがありました。
-メジャー挑戦の初年度、現地では日本とどのような違いを感じましたか
実際に行ってみて初めて知ることがたくさんありました。
言葉や生活面も含め、すべてが新鮮でした。特にテレビで観ていたスーパースターたちが、すごく地道な練習をしていたことに驚きました。「このレベルでもこういうことをやるのか」と、基礎練習の大切さを再認識できました。キャンプの流れやペース配分も日本とは全く異なり、そういった部分でも違いを体感しました。
事前に少しずつ情報は入ってきましたが、逆に先入観を持たず行こうと思いました。日本でプレーしていた自分を「欲しい」と言ってくれたわけですから、まずは現地で感じてみることが大事だと思ったんです。
外のストライクゾーンが広いという話も聞いていましたが、外いっぱいのボールは広くても狭くても打てないものです。厳しい部分ばかりを意識するよりも、まずは体感してから考えようという気持ちでした。
-野球に対する意識の違いで感じた部分はありましたか
それは様々ですね。とんでもない身体能力を持っているけれど、野球はまだ荒削り…という選手もいました。
-メジャーでは7年間活躍されました。活躍できた要因は何だったと思いますか?また、海外でプレーする上で最も大切なことは
実際にプレーしたのは5年ですね。決して飛び抜けた数字を残せたわけではありません。
ただ年間162試合、移動距離も時差もある中で戦い続けないといけない環境で、常にパフォーマンスを保ち続けることが求められます。僕たちは「助っ人」として行っているので、ここぞという場面でしっかり結果を出さないといけない。
1つのプレーで評価が落ちることもある。だからこそ、常に緊張感のある中で結果を出すことを意識していました。替えは利きますからね。
-生活面も含めて、タフな環境だったと思います
やっぱり言葉って大事ですよね。僕は英語がそんなに話せませんでしたが、通訳の方がついてくれていたので、普段は不自由しませんでした。
でも、通訳にも聞かれたくないことってあるんですよ。監督と話す時も、自分の弱みや悩みなどの本音を、通訳を通さず自分の言葉で伝えられたら、もっと違っただろうなと思います。

@日刊スポーツ
[チームでそして代表で]
-日本代表としてもプレーしていますが、日本代表と所属チームでの役割の違いなど、感じたことはありますか
2003年のアテネ五輪のアジア予選で初めて日本代表に選んでもらいました。小・中・高でも代表経験はなかったので、「日の丸を背負って戦う」というのは野球人生で初めての経験でしたね。
その緊張感は今までにないもので、今振り返っても人生で一番緊張した試合だったと思います。自分の第一打席はアジア予選の中国戦で、先頭打者として打席に立ちました。結果はデッドボールでしたが、それでも「よし!」と思えました。
まずはどんな形でも塁に出られたのが嬉しかった。そういう気持ちにさせてくれるのが、代表の舞台なんですよね。
-重圧やプレッシャーとどう向き合っていましたか
緊張は必要だと思っています。僕は結構緊張するタイプで、試合の開始時は、早く自分の守備範囲にボールが来てほしいなと思っていました。
最初は緊張していても、1本ヒットが出たり、1つ打球をさばいたりすると、そこからだんだんと、ほぐれて体も気持ちも落ち着いてくるんです。
特に開幕戦は毎年緊張していましたね。「今年打てるかな?」という不安との戦いです。体は準備できていても、ヒットが出るかどうかは分からない。どれだけバットを振り込んでいても、開幕戦は特別でした。
ただ、無理に緊張しないようにしようとは考えず、「緊張するならそれを受け入れよう」と思ってプレーをしていました。
-成功を収めるために意識していた習慣やルーティンは何ですか
これといったルーティンはないんですよ。ただ、食べ物はその日に食べたいものを食べるようにしていました。
もちろんバランスは意識しますけど、「これを食べなきゃいけない」と決めてしまうと、食事がストレスになってしまう。だから、身体が欲しているものを食べるようにしていました。その中で量や栄養のバランスは考えていました。
あとはスイッチヒッターとして、何をする時でもなるべく利き手ではない左からやるようにしていました。左右のバランスを意識して、あえて左の感覚を持つようにしていました。ルーティンとは少し違いますが、意識していたことです。
-監督や戦術などによって求められるものが違う中で、順応できるコツはありますか
結局は「自分のベストを尽くすこと」に行き着くんですよね。どの監督でも、使ってもらわなければなりません。
監督によってプレースタイルを変えるのは本当に難しい。だからこそ、どの監督、どのコーチでも「松井を使いたい」と思ってもらえるように、どう結果を出すか、どう“松井稼頭央”を見せていくか。それを考えると、やっぱりベストを尽くすしかないんです。
-ご自身のプレーなどは映像で振り返りますか
結構見ていましたね。今ほど手軽に見られる時代ではなかったので、打席やプレーをDVDにして、新幹線やバスの移動中にチェックしていました。守備もたまに撮影してもらって、自分がどう動いているかを上からの映像で確認していました。
自分がプレーしている時に、頭上にもう1人の自分がいるような感覚を持っておきたかったんです。客観的に自分を見ておくことは、意識してやっていました。
-年齢を重ねると、自分だけでなくチーム全体のことも任させるようになると思いますが、意識した点はありますか
言葉で伝えるのは難しいのですが、自分の姿を若い世代がどう見ているのかは意識しました。
あえていいプレーをするというよりは、ベストを尽くしている姿を見せたかった。東北楽天ゴールデンイーグルスではキャプテンをやらせていただいて、若い選手の間に入っていろいろな話をしながら、どんと構えていました。
-指導者として心がけている部分はどのあたりですか
選手と話すことが大事ですよね。どちらか一方通行ではダメですし、やるからには責任を持って取り組んでほしい。
そして結果も求めなければなりません。特に育成の選手は、1本でも多くバットを振って、より多く練習しなければならない。でもケガは絶対にダメ。
だからこそ、選手だけではなくトレーナーも含めたコミュニケーションが必要です。全員が同じ思いを持って動けるのが、ベストだと思っています。
[お金との付き合い方]
-お金はどのように管理していますか
管理は家族に任せています。
-お金の使い方に対する考え方は、年齢や立場の変化でどう変わりましたか
やっぱり変わりますよね。年齢を重ねると、若い選手と食事行く機会も増えます。
野球の話をしたり、現状を聞いたり、僕の考えを伝えたり。若い選手には次の日がありますし、僕もリカバリーが必要なので(笑)。おいしいもの食べて、わいわいして終了、という感じでした。
体のケアにはずっとお金を使っていました。日米通算1213試合の連続出場を続けていた時期は、治療に行って、2軍のグラウンドで体を動かして、どうすれば試合に出られるかを考えて使っていました。
-若い頃にお金に対するレクチャーがあったらよかったと思いますか
最近の若い選手はしっかりしていますよね。僕らの頃は全然分かっていませんでした。
今の選手は自己管理も含めて本当にしっかりしていると思います。プロ野球の世界なので、信頼できる人を紹介してもらったりしていましたが、やっぱり話を聞く機会があるといいですよね。
-選手時代に資産運用など、お金に関する話をチームメイトとすることはありましたか
資産運用の話を聞くようになったのは、メジャーに行ってからですね。当時はなかなか分からなかったです。
メジャーの選手でも、使う選手はめちゃくちゃお金使うんですよね(笑)。
[野球以外の夢と人生観]
-野球選手になっていなかったら、どんな職業についていたと思いますか
バスケットボート選手ですね。運動は何でも得意だったんですが、野球をやっていなかったら、バスケ選手を目指していたと思いますね。
―座右の銘があったら教えてください
「感謝」です。「感謝の気持ちを忘れてはいけない」、「謙虚でいなさい」と口酸っぱく言われてきましたが、やっぱり感謝ですね。
野球は僕ひとりではできませんし、支えてくれる人がいて野球をやらせてもらっているという気持ちが強いです。やっぱり感謝です。
〈プロフィール〉

@スポーツバックス
松井 稼頭央(まつい かずお)
1975年10月23日生まれ。日本の元プロ野球選手で、ポジションは内野手(主に遊撃手/二塁手)。右投両打。
大阪府出身。PL学園高等学校では投手として活躍し、プロ入り後に遊撃手へ転向。さらにプロ3年目からスイッチヒッターに本格挑戦し、走攻守三拍子のスタイルを確立した。2002年には打率.332、36本塁打、33盗塁でトリプルスリーを達成。
2003年にメジャー挑戦を表明し、MLBニューヨーク・メッツへ移籍。以後も米国でプレーし、日本とは異なる環境下でも結果を求められる「助っ人」としての役割を全うした。日本代表にも選出され、大舞台の重圧と向き合いながらチームに貢献。
帰国後はチームの中心として若手を牽引し、キャプテンとしても存在感を発揮。