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岩隈久志インタビュー 前編「ケガを乗り越えて、野球を続けられたのは仲間と恩師のおかげ」岩隈久志が語る挑戦の原点

@日刊スポーツ

「ケガをしないで1年間戦い抜くことが、一番の挑戦でした。」

静かに、しかし確かな口調で岩隈久志は語った。
少年時代から積み重ねてきた野球人生の中には、歓喜と苦悩が常に隣り合わせにあった。
ケガに悩まされた日々、野球が“楽しくなくなった”高校時代、そして恩師や仲間に支えられた再出発。

「もう辞めようかな」と思い詰めた日もあった。
それでも再びマウンドに立ち続けたのは、野球を愛する気持ちと、支えてくれた人たちへの感謝だった。

プロ入り後、久保康夫コーチとの出会いが野球観を変え、基礎から積み重ねた日々は、やがて日本を代表する投手への礎となった。
華やかさの裏にある“継続する強さ”──その原点を、岩隈久志が静かに振り返る。


[現役時代の挑戦と支え]

-現役時代に直面した最も困難な挑戦は何でしたか

「ケガをしないで1年間戦い切ること」が最大の挑戦でしたね。子供時代にも肩や肘のケガはありました。

ケガをしてしまうと、練習ができないことや試合に出られないことに悩んだり焦ったりと苦しい時間が増えてしまうので、できる限りケガをしないように気をつけてやっていましたね。

-ここまでのキャリアの中で最も影響を受けた指導者と、彼らから学んだ教訓は何ですか

久保康夫さんですね。現在はジャイアンツの投手コーチをされていますが、僕がプロ入りした頃は、近鉄の2軍コーチをされていました。プロに入って最初に出会った指導者で、基本的な投げ方からプロの心構えまで教えていただきました。

毎回「基本を大事にしなさい」と言われていました。若い頃はとにかく走り込みで基礎体力をつけながら、試合で使ってもらえた時は、何が良くて何が悪かったかしっかりフィードバックを受けながら実践で学んでいきました。その積み重ねが、自分の成長に大きくつながったと思っています。

あとは、当時は「グラウンドにはお金が落ちている」なんて言われていた時代で、結果が求められると同時に、評価されればその分自身の年俸も上がっていくのが勝負の世界です。

力をつけている段階で「お!ベンツのハンドルまで来たな」などと言われたこともあり、それがモチベーションになっていたのを覚えています。

-高校時代、辛かったことや印象に残っていることはありますか

練習はとにかく厳しかったですね。甲子園を目指す中で、大会の日程は決まっているため、どうしても1日も無駄にできないというプレッシャーがありました。

連帯責任もあったので、1つのミスも許されない空気の中で生活するのは正直苦しかったですね。やらされている感覚もありましたが、そういう環境の中で、もがきながら前に向かっていく経験は、今でも自分の中でしっかり生きています。

いい経験だったと思います。

-野球から距離を置いた時期もありましたか

ありました。実際、高校1年生の秋の大会が終わってから春頃まで、ボールすら触っていませんでした。

練習もせず、落ち葉掃きをする程度でした。環境が厳しく、野球が楽しいと思えなくなっていて、「もう辞めようかな」と悩んでいました。学校も辞めようかと考えるほどでしたが、担任の先生から「高校は卒業しようよ」と言われて、なんとか踏みとどまりました。

その後も野球部には在籍していましたが、「甲子園を目指す」というより「高校だけは卒業しようかな」という気持ちでした。でも高校3年生の春くらいから、また仲間と一緒に頑張る中で、再び前向きになれました。あの時、仲間と野球を続けられて良かったと思っています。

@日刊スポーツ


[プロ入りと育成の土台]

-プロを現実的に意識したのはいつ頃ですか

高校3年生の春の大会が終わった頃から、スカウトの方が練習試合を見に来てくださるようになって、「もしかしたらプロもあるかもしれない」と意識し始めました。

当時のチームメイトとも「最後の夏に頑張って上を目指そう」と言いながら、野球をしていました。

-すごい選手が多い中で、自信はありましたか

「すごい世界に飛び込んだな」と思いました。最初からできるとは思っていなかったです。スカウトの方からも「最初の3年間は陸上部のつもりでいろ」と言われていました。僕自身も、プロで野球を続けると決めた以上、まずは体を作って、プロの技術を学ぶことから始めようと思っていました。

高卒で入ったので、同期入団の大学・社会人出身の選手たちもすごく見えました。でも、できる・できないではなく、「ここでやっていきたい」という夢を追って飛び込んだ世界だからこそ、まずは必死に喰らいついていこうという気持ちでしたね。

-明確な育成方針を示してもらえたのは良かったですか

はい、良かったです。久保コーチからも最初に「一から始めよう」「投げ方から始めよう」と言っていただけたので、まずは基礎からしっかり吸収するという方針のおかげで、自分の土台を作ることができました。段階を踏みながら進めていけたのが良かったですね。

-プロ初勝利のことを覚えていますか

プロ2年目の5月でしたね(2001年5月29日の日本ハムファイターズ戦)。初めて1軍に上がった時は、うれしい反面、正直どうしたらいいのか分からなかったです。

最初に登板したのは、俗に言う“敗戦処理”の場面で、打撃戦でした。当時クローザーだった大塚晶文さんも投げ終わっていて、残っていた投手は自分も含めて3人くらいでした。8回裏、同点の状況での登板でしたが、呼ばれた時点で頭が真っ白になりました。マウンドの明るい照明もあって、頭も視界も真っ白だったのを覚えていますね。

その回は無失点に抑えられて、9回表に1点リードしてもらって続投したのですが、小笠原道大さんにホームランを打たれてしまい、同点に追いつかれた状態で9回裏を投げ終えて、初登板のマウンドを降りました。

その後、延長10回表に中村紀洋さんが満塁ホームランを放ってくれて、結果的に初登板で初勝利となりました。

印象に残っているのが、小笠原さんにホームランを打たれてベンチに戻った時、先輩かコーチに「年俸の差やから(気にするな)」と声をかけてもらったことです。失点して落ち込んでいましたが、「打たれた=だめ」じゃないんだと思えて、その言葉ですごく気持ちが楽になりました。いいデビューをさせてもらえました。

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[自己マネジメントとケガとの向き合い方]

-競技生活の中で、どのようにしてモチベーションを維持し続けていましたか

毎年目標を立てていました。

プロ入りから3年間は“陸上部”のようなものでしたが、1年目は、チーム内でも最下位の立場だったので、「努力次第で世代交代もある」と思って頑張れましたし、2年目は「1試合だけでも1軍で投げたい」という目標を立てて、実際に1軍デビューさせてもらえました。

夏には2軍落ちしましたが、自分に足りていないところが自覚できましたし、1軍コーチからも足りない部分を指摘してもらって「また這い上がってこい」と言ってもらえたことが励みになりましたね。常に目標を見据えながら取り組めたことがモチベーションの維持につながったと思います。

-シーズンの最初に目標を立てるタイプですか

そうですね。シーズン前に目標を立てて、シーズン中に目標を変えるようなことはあまりなかったです。

結果がついてくるか、こないかではなく、自分の中でやるべきことを明確にして取り組んでいました。自分に足りない部分を認識しながらやり続けようという気持ちでした。

1軍に上がるまでもそうですし、1軍に上がってからも少ないチャンスをどう活かすかを考えていました。最初に1軍で投げさせてもらえた時は、“たまたま”のような形でしたが、その時に無心でやれたことが結果的に良かったのかもしれません。

- 投手は肘や肩のトラブルを抱えることも多いと思いますが、どんなケアをされていましたか

まずは「予防」を大切にしていました。自分の体がどういう状態なのかを常に把握しておくようにしていました。

具体的には、ストレッチや、筋肉をほぐすマッサージや運動、電気を使った治療などを取り入れていました。プロに入ってからは特に、自分の体と向き合う意識が強くなり、ケアに対する意識も高まりましたね。

-状態がいい時ばかりではないと思いますが、悪い時でも「悪いなりにやる」ということが重要なのでしょうか

そうですね。「絶好調」の状態は、シーズンを通しても数試合あるかどうかです。

ほとんどの場合どこかに痛みや違和感を抱えていて、不調な部分に注意して、身体と向き合いながら試合に臨んでいました。実際、試合の中で身体の状態、特にメンタルの状態も変化しますし、勝ち負けはコントロールできない部分もありましたから。

-ケガと付き合うことは、メンタル面でも負担になりましたか

ケガをして離脱することは仕方ないと、まずは受け入れるようにしていました。その上で「ケガをする前よりも強くなって戻ろう」という意識を持っていましたね。

気持ちも1回リセットして、ゼロから積み上げる感覚です。そこから戻るまでのプロセスを意識しながら過ごしていましたね。毎日良くなっていくわけではなく、調子がいい日もあれば悪い日もあります。

今日はこれができたから良かったという日があったり、次の日は良くない日があったり、その積み重ねが復帰への道のりになります。最終的に振り返れるようにしておくのが大事かと思います。

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[新球団への挑戦とルール変更の壁]

-2004年シーズン後に楽天ゴールデンイーグルスへ移籍されました。新球団を選ばれた理由を教えてください

まっさらな気持ちで、新しい環境に挑戦したい思いがあったからです。

当時、所属していた近鉄バファローズはオリックス・ブルーウェーブと合併することになり、ライバルとして戦ってきた相手と同じチームでプレーをするという状況になりました。

自分はオリックス側にプロテクトされていたので、合併後も残ることはできたのですが、選手会の会合で「新しい球団に行きたい人は希望してください」と言われて希望しました。新しい気持ちで一から勝負したいという気持ちが強かったですね。

-吸収合併という複雑な状況の中、新球団を選ばれたことには迷いもあったのでは

野球人生の中でも、大きな決断をした瞬間でしたが、大変な新しい環境を選択したことは良かったなと思っています。

新しい球団に行く上で、強いとか弱いはあまり考えてはいませんでした。「100敗するのでは」なんて言われていましたが、僕自身はできると思ってやっていました。

-ご自身ではどうしようもないルール変更があった際、どのように乗り越えたのでしょうか

正直、大変でしたね。特に「2段モーション禁止」というルールは、自分の投球フォームを一から見直さなければならず、新しいフォームに慣れるまで1年くらいはかかったと思います。

その間にケガもありましたし、うまくいかないこともあり、メンタル的にきつかった時期です。

近鉄時代の最後のほうでは、2ケタ勝利を2回させてもらって、多少天狗になっていた部分もあったと思います。それもあって思うように投げられないことに対してちょっと投げやりになったこともありました。

肘を手術して2008年に復活したのですが、自分自身が変わらないといけないと思えたので、野球に対するやるべきことや使命感を考えました。

もう1回、自分のやるべきことをやろうと。結果が出るまでは「もう終わったな」と言われることもありましたが、それでも上に行こうとする姿や、戦う姿が何かにつながるだろうと思って、諦めませんでした。

チームメイトや家族に感謝しながら野球を続けられて、さらに2008年のシーズンは結果も残せたので良かったと思います。

岩隈久志インタビュー 後編「ケガを乗り越えて、野球を続けられたのは仲間と恩師のおかげ」岩隈久志が語る挑戦の原点は、11月17日公開予定


〈プロフィール〉

@スポーツバックス

岩隈 久志(いわくま ひさし)

1981年4月12日生まれ。日本の元プロ野球選手(投手)。東京都東大和市出身。右投右打。

大阪近鉄バファローズでプロデビュー後、東北楽天ゴールデンイーグルスでエースとして活躍し、2008年に沢村栄治賞とパ・リーグMVPを受賞。2009年WBC優勝メンバー。2012年から米シアトル・マリナーズで先発ローテの柱となり、2013年にMLBオールスター選出、2015年8月12日にはオリオールズ戦でノーヒットノーランを達成した。NPB通算107勝、MLB通算63勝。引退後の2021年からマリナーズのスペシャルアサインメントコーチを務め、日米の若手育成にも関わっている。

FPメディア編集部

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