「岩隈久志インタビュー 前編「ケガを乗り越えて、野球を続けられたのは仲間と恩師のおかげ」岩隈久志が語る挑戦の原点」の後編です。

※本人提供
[海外挑戦とメジャーでの経験]
-2010年にメジャー挑戦を表明するも、条件が合わずに残留となりました。その時の率直なお気持ちは
その時は、しっかりと割り切って「自分のやるべきことをやるだけ」と思っていました。その年はケガもあってあまり数字は残せませんでした。それでも自分の中で挑戦したい気持ちは強くあって、できるかどうかは関係なかったです。
-2011年のシーズン後にマリナーズへ移籍されました。いつからメジャーを意識されていましたか
2009年のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)を経験してからですね。アメリカであの空気を感じて、ここでやってみたいという気持ちが芽生えました。
1歳上の松坂大輔さんがメジャーに行かれて、その姿に憧れたこともきっかけでしたね。
-現地ではどんな違いを感じましたか
一番は野球の文化が違うところです。
例えば、送りバントをしないとか、全員フルスイングしてくるとか、そういった野球の戦い方自体に違いを感じました。ストライクゾーンも日本とは判定基準が違うので、投げながら合わせていくという感じで、最初は苦労しました。向こうのルールに従うしかないので、徐々に順応していきました。
-野球に対する意識の違いで感じる部分はありましたか
「野球を楽しんでやっているな」と感じましたね。仕事としてやってない、という感じです。フィジカル面やモチベーション、トレーニング内容などを見てもいい選手はしっかりとやっていました。
-メジャーでの6年間を含め、アメリカで7年活躍されました。活躍できた要因はなんだと思いますか?また、海外でプレーする上で最も大切なことはなんでしょうか
一番は、メジャーというプレッシャーに飲まれずに、自分自身の持ち味をしっかりと出すことですかね。
中4日で投げることもあり、それに対してフィジカル面の準備は大変でしたが、持ち味や自分の色をしっかりと出すことが大切だと思っていました。
-やはりメジャーでは「いつも以上の力を」と意識してしまいそうな場面もあったのではないでしょうか
最初の時点で経験値はありましたからね。力と力では勝てない面も理解していましたから、その中でどういう色を出してパフォーマンスするかということに集中していましたね。

※本人提供
[日本代表としての経験と重圧]
-日本代表としてアテネ五輪に出場された際、所属チームとの役割の違いなどで感じたことはありましたか
アテネの頃は最年少だったこともあって、チームのために動くことを一番に考えました。
代表のユニフォームを着るだけでも緊張感があって、自分の色をどう出すかというところまではいけませんでした。ただ、各球団の1軍の選手たちと一緒にプレーできたことは勉強になりましたし、それが2009年のWBCにつながりました。
-重圧やプレッシャーとどう向き合っていましたか
やはり、日の丸を背負うというのは特別なものでした。それだけに、プレッシャーも非常に大きかったです。
今までに経験したことのない緊張を感じましたし、結果を考えれば考えるほど不安にもなりました。それを乗り越えられたのは自分ができることだけに集中して、それ以上のパフォーマンスを無理に出そうとしなかったからだと思います。
だからこそ、自分の持てる力を最大限出せたのかなと思います。
-成功を収めるために意識していた習慣やルーティンはありますか
あまり特別なことはしていなかったですね。試合中、ラインを踏まないことくらいです。食事面でも前日には炭水化物を多めにとるとか、それくらいでした。
-監督や戦術などによって求められるものが違う中で順応できるコツはありますか
一番は「自分のできること」に集中することでしょうか。細かい指示を出す指導者もいますが、全部受け入れてしまうと自分のリズムが崩れてしまいます。
監督も勝つためにいろいろな判断をしなければならないので、そこに合わせる部分も必要ではありますが、プレーヤーとしてマウンドに立つのは自分ですし、結果も自分に返ってきます。
勝ち負けや防御率など数字として残るものが自分の評価になりますから、自分の持ち味を消さないことは大事だと思います。
-ご自身のプレーなどは映像で振り返りますか
僕は見ないタイプです。若い頃は配球の確認などはしましたが、経験を積んでからはほとんどしていないですね。
自分の投げ方や攻め方は頭に入っていたので、フォームチェックもあまりしなかったです。調子のいい時も悪い時も、その時にできることに集中していました。
理想を追いかけるのではなく、その時の状況に合わせて「これで行こう」と決めていたタイプです。
【チーム内での役割と指導者としての視点】
-年齢を重ねると、チーム全体のことも任される場面も増えると思いますが、意識したことはありますか?楽天時代と巨人時代では担った役割も違ったと思いますが、いかがでしょうか
楽天の頃は、とにかく投げて戦って、行動で示すしかない、という気持ちでした。
言葉で引っ張るというより、プレーで背中を見せることを意識していましたね。巨人の時は、自分の経験を若手選手たちに伝えることを意識していました。実際、話を聞きに来てくれる選手も多かったです。
-子供たちへ指導する際、昔ながらのやり方が通じない時代になっていますが、意識されていることはありますか
一番意識しているのは、「自分がやってきた時代の話をしない」ということです。今の子供たちにはあまり意味がありませんからね。
大事なのは、どうすれば伝わるのか、どうすれば分かりやすいか、やらされてやるのではなく「自分からやってみたい」と思ってもらえるか、ということですね。
中学生くらいまでは、まだ知らないことも多いので、基礎的な動きの部分をやらせることはありますが、僕たちの頃のように「なんでできないんだ」というような指導はしません。ミスがあっても「いいんだよ、大丈夫だよ」と伝えた上で、流すのではなく、「なんでこうなったと思う?」と聞くようにしています。
「ちょっとこうかな」とか、「こうしてごらん」とアドバイスをしながらやっていく中で、できなかったことが、できるようになった時に楽しいと感じてもらえるといいなと思っています。

※本人提供
[お金との向き合い方と価値観の変化]
-お金はどのように管理していますか
管理は家族です。基本は任せています。分からないことのほうが多いので。
-お金の使い方に対する考え方は年齢を重ねて、もしくは立場が変わってどのように変化しましたか
欲しいものや物欲も変わってきますからね。今は運用を始めたりしていますが、根本の考え方はそこまで大きくは変わっていないと感じます。
-若い頃にお金に対するレクチャーがあったら良かったと思いますか
あったら良かったなと思いますね。周りから「だまされるなよ」と言われることはありましたが、正直見極めも難しいですから。もっとお金に対するレクチャーや授業があってもいいのかなと思います。
当時は親からしか教わらない部分でしたから、こういう流れでお金が回っているとか、活かされているというのは教えてもらえるほうがいいですよね。プロの世界は若いうちにしか稼げないですし、大切な部分だから教えてもらえたほうがいいです。
知識をちゃんと身につけておくことで野球人生が終わった時に苦労せずに、選択肢も増えると思います。
-選手時代に資産運用やお金に関係することでチームメイトと話す機会はありましたか
日本人選手だと、ステータスのために、いいモノを買うというイメージがありますが、アメリカ人はあまりそういうところにお金は使っていませんでしたね。使うところが違いました。
活躍している選手でも、洋服はジーンズでしたし、車も大きければいい、みたいな感じで。しっかり運用をしている、という話は聞いたことがあります。「今はこんな土地を持っているんだ」とか、「僕はハンティングが好きだからこういう土地を買いたい」とか、農業をやりながら野球をしているという選手もいました。
逆にそうすることで野球にも余裕を持って向き合うことができて、楽しめるのだろうなと思いました。日本の場合は、「活躍して稼がなければ」というふうに追い込まれている感じもあるので、楽しみ方には違いがあるかもしれませんね。
-日本の場合は「24時間をささげるのが美徳」とされる一面もありますが、その点についてはどう感じていましたか
そうですね、全く違います。ラテン系の選手は「今しかないから楽しく生きられればいい」という考え方の人も多くて、価値観の違いは感じました。
[引退後の展望と伝えたいこと]
-野球選手になっていなかったらどんな職業についていたと思いますか
当時、高校生で野球を辞めようと思った時に「今後どうしようかな・・・」と思ったことはありましたけど、なんでしょうね。あんまり深く考えていませんでした。野球ばかりだったので、全く違う人生ですかね。
-座右の銘があったら教えてください
好きな言葉ということで「向上心」ですかね。いい時も悪い時も、うまくなりたいとか、こうしていきたいという気持ちがないとストップしてしまうと思います。もちろんメリハリをつけることは大事ですが、向上心は常に持っていたいと思っています。
―今後こうして行きたいという目標はありますか
野球を長くやらせてもらえたので、恩返しするつもりで、後の世代に野球の楽しさを伝えていきたいです。何かしらの形でも野球に関われると嬉しいです。その思いは持っています。
〈プロフィール〉

@スポーツバックス
岩隈 久志(いわくま ひさし)
1981年4月12日生まれ。日本の元プロ野球選手(投手)。東京都東大和市出身。右投右打。
大阪近鉄バファローズでプロデビュー後、東北楽天ゴールデンイーグルスでエースとして活躍し、2008年に沢村栄治賞とパ・リーグMVPを受賞。2009年WBC優勝メンバー。2012年から米シアトル・マリナーズで先発ローテの柱となり、2013年にMLBオールスター選出、2015年8月12日にはオリオールズ戦でノーヒットノーランを達成した。NPB通算107勝、MLB通算63勝。引退後の2021年からマリナーズのスペシャルアサインメントコーチを務め、日米の若手育成にも関わっている。