
「バレーが好き。試合が好き。」
そのまっすぐな気持ちは、小さな頃から変わらず石井優希のなかに根を張ってきた。小中学校時代、同じ仲間たちと県大会ベスト8まで勝ち進んだ日々。守備も攻撃もバランスよく学んだ時間が、「オールラウンダーになりたい」という将来の自分像につながっていった。
就実から久光スプリングスへと進んだ先には、日本代表クラスの選手たちとしのぎを削るプロの世界が待っていた。代表合宿で味わったフィジカルの差、2017年の代表活動で「代表にいたくない」と思うほどに心が折れかけた日々、そしてキャプテンとして臨んだ2019–20シーズンの重圧と葛藤――結果を求められるチームの中心に立ち続けることは、決して平坦な道ではなかった。
本インタビューでは、プロを目指した高校時代の決断、全国大会で痛感したレベルの差と学び、久光スプリングスでの成長とキャプテンとしての葛藤、そして引退後も見据えたお金との向き合い方やこれからの人生への思いに迫った。
【プロを目指したきっかけと進路選択】
━━プロになる!なりたい!と思った時期は
高校2年生の頃、就職するか進学するかを考えていたときに、「就職して地域のクラブチームで楽しくバレーを続けたいな」と話していたのを覚えています。本格的にプロを目指す覚悟を決めたのは、高校3年生になってからだったと記憶しています。
━━全国の強豪校から声がかかったと思いますが、県内の就実高校を選んだ理由は何でしょうか
中学3年生のときにアンダーカテゴリーの代表に選んでいただいたことをきっかけに、「春高バレーに出たい」という夢をもちました。どこなら出られるかを考えたとき、県内の就実か県外の強豪校かで迷い、最終的に就実を選びました。
━━やはり地元が良かったのでしょうか
地元が良かったという気持ちもありましたし、人見知りなので、誰も知らない環境で一から友達をつくることに不安がありました。実は、願書を出した後に、アンダーカテゴリーで一緒だった選手4、5人が東九州龍谷高校に進学すると聞いて、「私も東龍に行きたい」と親に相談しましたが、すでに就実に決まっていたので変えることは出来ませんでした。
でも、就実を選んだことを後悔したことはありません。もし東龍に行っていたらレギュラーになれなかったかもしれませんし、指導方法も自分には合わなかったかもしれません。就実で友人たちと一緒に、地元の方々に応援してもらいながらプレーできたことは、本当に良かったと思っています。春高バレーではベスト32かベスト16くらいでしたが、楽しかったです。

【全国大会での経験と気づき】
━━1年生で春高バレーに出場されました。全国の舞台で感じたことはありますか
全国の舞台はレベルがまったく違いました。1年生のときは八王子実践高校に負けたのですが、代表選手もいてプレーの質も圧倒的に光っていた印象が強く残っています。2年生のときは古川学園に敗れましたが、中学時代に一緒にプレーした仲間がいて、「負けたくない」という気持ちがありました。
ただ、チーム全体のレベルや熱量の差を感じました。春高でベスト4に残るチームは、やはり組織としての意識も高く、きっちりしている印象でした。
【小中高時代の練習と基礎づくり】
━━小中学生の頃に特に意識して取り組んだ練習はありますか
中学校ではそこまで厳しい練習はしていませんでしたが、小学校のときに基礎をしっかり教えていただき、守備・攻撃ともにバランスよく指導してもらえました。仲間にも恵まれ、小中は同じメンバーで、県大会ベスト8まで進めたのは楽しかったです。
サーブレシーブは苦手でしたがスパイクレシーブは好きだったので、小学校で培った経験が「オールラウンダーになりたい」という目標につながりました。それがプロでも活かされ、大きな財産になっています。就実でも基本練習の反復が中心で、「基本に忠実に」というチームのテーマがあり、プロになってからもその大切さを実感していました。
━━逆に、もっとやっておけばよかったと思う練習内容はありますか
ブロック練習は、中学時代にもっとしっかり取り組んでおけば良かったなと思います(笑)。苦手なプレーや雑になってしまうプレー、詰めの甘さもあったので、自分にもっと厳しくしていればまた違ったかもしれません。代表合宿では真鍋監督からサーブレシーブやブロックについて指摘を受けていました。もう少し磨いていれば、180センチという身長の高さをもっと活かせたかもしれません。

【久光スプリングスへの進路とプロの世界】
━━久光スプリングスに決めた理由はありますか
就実から久光への進路がある程度決まっていて、監督からも「久光へ」と言われていました。私自身、プロの世界に詳しくなく、どのチームがあるかも知らないくらいでした。後から両親に聞いたところ、他のチームからもオファーがあったようですが、両親としては監督に預けるという考えがあり、久光に決めました。
━━中学から高校、そして高校からプロとして試合をするようになり、戸惑った面などはありましたか
高校では寮生活だったので、自分のことは自分でしなければなりませんし、共同生活にも戸惑う場面もありました。生活面でも規制があり、大きな変化でしたね。高校から実業団に進んだときは、高校3年生のクリスマス頃にチームに合流しましたが、シーズン中だったため試合には出られず、応援が主な役割でした。毎日の練習時間もリーグ期間中は限られていましたが、プロとして食事管理は重要で、食事量と運動量のバランスを取るのが難しかったです。
【苦しかった時期とキャプテンとしての葛藤】
━━これまでで最も苦しかった時期はいつでしょうか
苦しかった時期は2回あります。1つ目は2017年の代表活動です。2016年のリオ五輪が終わり「次は自分が引っ張る」という気持ちで、東京五輪に向けての時期だったのですが、スタッフの入れ替えなどで関係がうまくいかず、初めて「代表にいたくない」と思い、毎日泣いていました。技術というより、連携がうまくいかないことが辛かったです。
2つ目は、2019-20年シーズン。久光でキャプテンを務めましたが、結果が出せず苦しいシーズンでした。それまで2連覇していた中での3連覇がかかるシーズンで、東京五輪も控えていたので結果を出したい気持ちが強かったのですが、チームも自分のパフォーマンスも上がらなくて・・・。
チームをまとめるのは実はあまり得意ではないのですが、成長のためにキャプテンを引き受けた経緯があるにもかかわらず、うまくいかなくて。後輩たちの意見を聞いた上で、チームを良くしなければならなかったのに、結果ばかりに目が向いてしまい、「どのメンバーならチームが勝てるか」など、本来スタッフが考えることまで自分で考えてしまいました。
当時の監督に「○○選手を使ったほうがいいんじゃないですか」や「私を使わなくてチームが勝てるならそれでいいです」とネガティブになったり・・・。チームのためと思っていたことが、実はそうではなかったと後から気づきました。自分のことをしっかりやることが「引っ張る」ことにつながるはずなのに、やるべきことに向き合えていませんでした。その年もずっと泣いていて、前任のキャプテンに相談しながらもがいたシーズンでした。

【初めての代表選出とその衝撃】
━━初めての代表選出が2011年。自信はありましたか
最初は圧倒されました。初めての合宿が、竹下佳江さんをはじめテレビで見ていたトップ選手の方々と一緒だったので、かなりの緊張感がありました。私は負けず嫌いではあるのですが、思考はネガティブなところがあって、うまくいかないと殻にこもってしまうようなところもあります。気持ちも技術もまだ追いついていないと感じながら合宿に参加していて、オランダ遠征中にケガをして離脱しました。ケガをしていなくても、あの時点で選出されるのは難しかったと思います。
━━代表を経験して自チームに戻られた際、意識の面で変わったりはしましたか
代表の方々と一緒にプレーできたことで、自信がつきましたし、気持ちも高まりました。2012年ロンドン五輪では私は選ばれていませんでしたが、一緒にプレーしたメンバーが銅メダルを取る姿を見て「私も頑張っていれば、あの場にいられたかもしれない」と思いました。そこから「次のリオ五輪は絶対に頑張りたい」と強く思うようになりました。
━━代表で外国人と対峙するとフィジカルの違いを感じることはありましたか
高さやパワーではどうしても劣る部分があります。眞鍋監督が目指していたのは、スピードや粘り強さを武器にするスタイルでした。日本が背の高い外国チームと対戦すると、アウェーでも日本が応援されることがあって、それがすごく楽しかったです。相手のブロックを利用して得点したり、高さがある分、横の動きが遅いところを狙ったりと、相手の弱点にフォーカスして戦うのも面白かったですね。
━━海外でプレーする選手もいます。女子バレーのレベルアップ、人気の高さは感じますか
バレーは本当に人気があるなと感じています。強いからこそ人気があるのだと思いますし、一人ひとりの技術力は海外の選手よりも高いと感じることもあると思います。もちろん、まとまったときの高さやパワーで押されることもありますが、男子のプレーを見ても日本の技術力の高さはすごいと思います。
例えば今なら「フェイクセット」(最初のレシーブ後にスパイクを打つと見せかけてトスに切り替えるプレー。石川祐希選手が得意としている)など、日本は新しいことにどんどんチャレンジしています。海外ではあまり見られないプレーを取り入れていて、見ていてワクワクします。過去を振り返っても、回転レシーブやひかり攻撃など、日本が新しい戦術を生み出したときには五輪でメダルを取っている印象があります。
石井優希インタビュー 後編「折れない心」キャプテンとしての葛藤と日本代表で得た学びは、12月22日公開予定
〈プロフィール〉

石井 優希(いしい ゆき)
1991年5月8日生まれ。日本の元女子バレーボール選手(アウトサイドヒッター)。岡山県倉敷市出身。
中学時代にアンダーカテゴリー日本代表に選出され、「春高に出たい」という思いから岡山県の就実高等学校へ進学。卒業後は久光スプリングス(現・久光スプリングス)に加入し、持ち前の高さとタフな守備、安定したレシーブを武器に攻守の要として活躍した。
2011年に全日本女子代表に初選出され、2016年リオデジャネイロ五輪代表メンバーにも名を連ねるなど、長年にわたり日本代表の主力としてプレー。Vリーグでは13シーズンを久光一筋で戦い、リーグ優勝・皇后杯優勝に貢献。2019–20シーズンにはキャプテンを務め、チームを牽引した。