石井優希インタビュー 前編「折れない心」キャプテンとしての葛藤と日本代表で得た学びの後編です。

【チームマネジメントと日々の過ごし方】
━━モチベーションの維持や日々の過ごし方で注意していたことはありますか
やっぱり「バレーが好き」「試合が好き」という気持ちが一番大きいです。リーグ戦は半年間続きますし、代表活動でも試合が続きます。体がしんどいときもありましたが、試合ができる楽しさがあったからこそ、13年間続けてこられたのだと思います。
あとはオンとオフをしっかり切り替えること。休みの日はしっかりリフレッシュするようにしていて、それが性格にも合っていたと思います。ケガも比較的少ないタイプで、2012年までは少しありましたが、それ以降はケガで試合に出られないということがなかったので、メンタル的にも安定していたのかなと思います。
━━ご自身で決めているオフの過ごし方はありますか
23歳くらいまでは寮生活でした。寮は体育館と同じ敷地内にあったので、オフの日は「絶対に外に出る」と決めていました。基本的には誰かとご飯に行ったりしていましたね。20代後半からは一人暮らしになったので、家で映画を観たり、一人で出かけたりと、よりゆったりしたリフレッシュの時間が増えました。

━━ご自身の試合や、海外または国内チームの試合のVTRは見ますか
見ます。毎日の練習でも映像を撮っていて、練習後にその映像を見て確認や修正をする時間がありました。試合のときはアナリストさんが試合映像にデータをプラスしてくれるので、データの側面からも確認していました。
あとはたまにNHKのBSで中継されることがあるので、それを録画して見たりもしていました。解説者の方がどんなふうにプレーを見ているのか、このプレーはどう評価されているのか、と考えながら見ることもありましたね。
━━久光一筋で13年間プレーされました。移籍を考えたことはありますか
あります。海外については人見知りだし英語も苦手なので、正直興味はありませんでした。ただ2019年頃、東京五輪に向けて成長するためには海外挑戦もありだと思ったことがあり、チームのGMに「海外に行かせてほしい」と伝えたことがあります。でも急な話だったので、編成もすでに決まっていて、結局残ることになりました。残ったら海外への気持ちは自然に消えました。
あとは2019-20年シーズンが7位、2020-21年シーズンが8位となった時には移籍を考えました。ただ、行きたいチームがあったわけではなく、7位、8位と結果が出ない状況が続いてしんどくて、新しい環境でバレーを楽しみたいと思ったんです。母にも相談しました。「今日は言うぞ」と決めてGMに電話したのですが、声を聞いた瞬間に申し訳なさが勝って涙が出てしまいました。それでも「移籍させてください」と伝えました。
後日、東京まで来てもらい、当時代表の監督だった中田久美さんにも相談しました。久美さんからは「久光は環境もブランドもしっかりしている」と言われ、その後にGMと話して納得し、残ることを決めました。今振り返っても、残ったことは正解だったと思います。
━━中田久美さんとは久光・代表でともに過ごされました。監督と選手という立場とはいえ、関係性で変わっていった面はありますか
あまり変わらないですね。久光から代表の監督になられたときに「久光の選手には特別な思いはあるけど、みんな平等だから」と言われました。2021年は久光から代表に選出されたのが私だけでした。そのときに久美さんから呼ばれて「他のチームの子たちはどう言われたらうれしいかな」と聞かれたりしました。トータルでは9シーズン一緒にやったので、久美さんとの信頼関係は強かったと思います。
久美さんはいつも選手を第一に考えてくれる方です。どう見られるかといった細かい部分まで気にかけてくれる愛情深さがありますし、一方で必要なことはズバッと伝えてくれるのでとても信頼しています。
【重圧との向き合い方】
━━チーム内で中心的な立場だと、重圧とは常に背中合わせだと思いますが、その向き合い方は
ボールが止まっている時間のほうが長いので、その間の使い方を意識していました。うまくいくときばかりではないので、次のプレーにどうつなげるかを考えていました。あとは仲間を頼ること。自分の調子が悪いと思ったら仲間を頼るようにしていました。
若い頃はどうしてもプライドが邪魔して頼ることをマイナスに感じ、意地を張って頑張ったこともありました。でもチームが勝つためには頼ることも必要で、頼られることも必要。その時間にしっかりとコミュニケーションを取るようにしていました。
━━キャリアを重ねると、チーム内で求められる役割も変わり、それまでとは違った重圧や、違った楽しさもありそうですが、振り返ってみていかがですか
結果は出せていたと思いますが、精神的にきつかったシーズンも多かったです。20代はついていくのが精一杯で、結果を求められるチームだったので、その重圧を感じながらやっていました。だからこそ心身ともにしんどかったですが、リーグや天皇杯で優勝できたことで報われましたね。
━━バレーやそれ以外でも相談や助言をもらう存在はいますか
同期ですね。一人で抱え込むタイプではなく、相談できるタイプなので、長岡望悠選手や野本梨佳選手にはよく相談しました。長岡選手は代表でも一緒だったので特に頼りにしていました。
━━ご自身のここまでのキャリアでのベストゲームは
1つには決められません。でも東京五輪後のシーズンで天皇杯優勝、リーグ優勝を達成できたのは特別でした。それまでの優勝とは違う感情で、本当に楽しんで優勝できたと思えたシーズンでしたね。
そのシーズン頃から監督にも「頼られたらもちろんやりますが、若手を出してもらって大丈夫です」と伝えていました。開幕戦はベンチ外でしたが、最終的には頼ってもらい、優勝の瞬間はコートに立っていました。心に余裕ができて楽しかったです。コロナ禍で延期になった試合があり、最後の10日間で6試合という過密スケジュールでしたが、しんどさより楽しさが勝って、特別な時間になりました。

【お金との向き合い方】
━━お金の使い方や考え方は年齢を追うごとに変わりましたか
30代に入ってからは引退後のことも考えるようになり、株やNISAを始めてみました。もともとお金を使うタイプではなかったのですが、「貯めないとな」と思うようになり勉強を始めました。
━━現役時代、お金の管理はご自身でされていましたか。ご家族でしょうか
自分でしていました。久光に入った当初は両親に管理してもらっていましたが、その後は自分で管理していました。
━━お金の使い方などでチームメイトと話す機会はありましたか
あまりなかったですね。ただ、現役時代に投資を始めたチームメイトがいて、紹介してもらうところまでいったのですが、結局そのときは手を出せずにいました。
━━お金について若い時期から知ることは大切ですよね
特にアスリートは選手寿命が短いので、若いうちからお金について学び、「今は何に使うべきか」を考えることが大切だと思います。どう使うのか、貯蓄するのか、投資するのか、そうした選択肢を知る機会があれば良かったですね。
【バレー以外の自分、未来への思い】
━━苦手なスポーツ、もしくは苦手なことはありますか
水泳が苦手です。息継ぎが下手で全然進まないんです。あとは走ることも苦手です。太もも前の肉離れをしたことが2回あり、どちらもトレーニングでダッシュやインターバル走をしたときでした。なので走ることには嫌な印象しかありません(笑)。
━━これからの目標は
趣味はあまりなくて、ずっと子供が欲しいと思っていました。仕事以外では家族が増えることは楽しみです。
仕事については「どんな活動ができるかな」と考えています。好きなことを職にできればいいのですが、バレー以外でまだ出会えていないので、これから見つけたいと思っています。

━━バレーボール選手になっていなかったら何をしていましたか
小学校の卒業文集には「保育士さん」と書いていました。でも多分、実際にはなっていなかったと思います。性格的に何かを突き詰めるタイプではないので・・・。
ただ、バレーボールだけは自然と打ち込めて続けられました。なので、バレーボール選手になれて本当に良かったと思っています。
〈プロフィール〉

石井 優希(いしい ゆき)
1991年5月8日生まれ。日本の元女子バレーボール選手(アウトサイドヒッター)。岡山県倉敷市出身。
中学時代にアンダーカテゴリー日本代表に選出され、「春高に出たい」という思いから岡山県の就実高等学校へ進学。卒業後は久光スプリングス(現・久光スプリングス)に加入し、持ち前の高さとタフな守備、安定したレシーブを武器に攻守の要として活躍した。
2011年に全日本女子代表に初選出され、2016年リオデジャネイロ五輪代表メンバーにも名を連ねるなど、長年にわたり日本代表の主力としてプレー。Vリーグでは13シーズンを久光一筋で戦い、リーグ優勝・皇后杯優勝に貢献。2019–20シーズンにはキャプテンを務め、チームを牽引した。