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和田一浩インタビュー 前編「不撓不屈の精神」42歳で進化し続け、2000本安打を導いた“原点”

「不撓不屈の精神」

それは和田一浩の野球人生を貫いてきた信念だ。

大学卒業時のドラフト指名漏れという挫折を経て、社会人からプロの世界へ。入団当初は思うような結果が出せず、一軍と二軍を行き来する日々が続いた。

しかし、恩師との出会いで技術の「幹」を築き、30歳にして規定打席に到達。以降、徹底した自己管理で40代まで進化を続け、史上最年長での2000本安打達成という偉業を成し遂げた。 多くのケガや壁と向き合いながらもバットを振り続けたのは、「一流と認められたい」という渇望と、周囲への深い感謝があったからだ。

本インタビューでは、プロ入り前の原点、遅咲きのブレイク秘話、そして長く現役を続けるための自己管理術に迫った。


【終わりのない探求心】

自分の価値を一番高めてくれたのは、やはり「バッティング」でした。ただ、この「打つこと」には明確な正解がありません。年齢や置かれた状況によって感覚は変わりますし、その時々で答えも変わっていくものです。

今の年齢になっても、はっきりとした100点満点の答えは見つかっていません。バッティングというものは、それほど奥が深く、難しいものだと感じています。でも、その答えを探し続ける時間や、考えながら取り組む時間そのものは楽しいものでしたし、今でもそうですね。

━━シーズンオフとシーズン中で、答えの探し方は変わるのでしょうか?

基本的に「新しいことにトライしていく」という姿勢は変わりません。ただ、そのためには自分の中に“幹”のようなものが必要だと思っています。 例えば、いつも「バッティングフォームが変わっている」と言われてしまうとしたら、それは幹がないからだと思うんです。太い幹があれば、新しいことに挑戦しても、必ず帰るべきところがあります。まずは自分の幹を作ること。その上で挑戦することが大事だと思います。


支えとなった指導者と「幹」の形成

━━ここまでのキャリアで、最も影響を受けた指導者は誰ですか。また、その方たちから学んだ最も重要な教訓は何ですか?

正直、なかなか1人に絞るのは難しいですね。どの指導者の方も、それぞれに特色がありましたから。その中でも、プロの打撃コーチとして携わっていただいた土井正博さん(現役時代は近鉄や西武で活躍、コーチとして西武などで活躍)からは、「プロとは何か」という姿勢や考え方、技術的な面まで幅広く教えていただきました。

そして、自分の“太い幹”を作ってくれた存在が金森栄治さん(選手で西武、阪神、ヤクルトで活躍、コーチでヤクルト、西武など多数)です。この出会いがなかったら、自分の骨組みはできていなかったと思います。 このお二人との出会いは、自分の野球人生において本当に大きかったですね。

━━幹が出来たのは、教えを受ける中ででしょうか?

最初は分からない状態からスタートでした。ただ、同じことをやり続ける中で、後から振り返ると、いつの間にか太い幹になっていたんです。やっている最中は、自分ではなかなか気づけません。少しずつ分かってきた時に、「自分の形ができつつあるんだな」と感じました。


プロを目指すまでの原点】

━━高校時代の思い出について教えてください。

思い出したくないことは特にないですね。苦しい練習も、今振り返れば自分にとってプラスだったと思います。理不尽に感じることもある時代でしたが、上下関係に触れたのも高校時代が初めてでした。 その経験は、社会に出てから確実に活きましたし、今では大切な財産だなと感じています。

━━プロ入りを意識したのはいつ頃でしたか?

高校3年生くらいですね。新聞に名前が載るようになってきて、「あ、これは現実なんだな」と実感するようになりました。

━━東北福祉大学へ進学されましたが、将来についてどのように考えていましたか?プロ入りを意識したのはいつ頃でしたか?

将来のプランは全く立てていなかったですね。卒業する頃に、「プロに行けたらいいな」と思っていたくらいです。 入学してすぐ、大学野球のレベルの高さを痛感しました。自分が1年生だったときの4年生は、5人もプロに進むような環境でした。それだけトップレベルの選手が集まっていましたから、一日一日を必死に過ごすことで精いっぱいでした。将来を考える余裕はなく、目の前のことに集中する毎日でした。 寮生活も正直きつくて、寝るときが一番幸せでしたね。

━━大学卒業時、ドラフト候補とも言われていましたが、神戸製鋼へ。指名されなかったときの心境は?

ショックは大きかったです。大学からプロに進む選手が多いですし、同級生がドラフトで指名を受けたり、同じ舞台でプレーをしていた選手たちがテレビや新聞で取り上げられていく姿を目にすると、自分だけが取り残されたような感覚になりました。

━━社会人に進む際の切り替えはできましたか?

そうですね。楽観的にとらえる性格だったのもあるとは思いますが、「しょうがないな」と比較的すんなり切り替えることができました。


「結果がすべて」の世界で生き残る

━━西武ライオンズへは捕手として入団されていますが、当時は伊東勤さんも在籍していました。捕手として勝負したいという想いが強かったのか、それとも打撃を生かして野手としての可能性も考えていましたか?

思い切りキャッチャーで勝負したいと思っていました。西武に入る際には「野手で」とは言われていたのですが、当時の監督だった東尾修さんに「キャッチャーをやりたいです」と伝えたところ、「じゃあやっていいぞ」と言っていただけて。 小さい頃からキャッチャー一筋でしたし、プロに入っていきなり別のポジションで勝負することは考えていませんでした。そういう意味でも、キャッチャーへのこだわりは相当強かったですね。

━━アマチュア時代からプロ入り後までを通して、「すごい!」と感じた選手はどなたですか?

伊東勤さんは、全てにおいて本当にすごい選手でした。同じキャッチャーというポジションだったからこそ、その凄さをより間近で感じていました。 また、ピッチャーは本当に「全員すごいな」と感じましたね。高い技術を持ちながら、それぞれに明確な個性がありながらも、「投げる」という行為をここまで極められるのか、と圧倒されました。

━━子供の頃からずっと野球をやっていたのですか?

はい、ずっと野球をやっていました。野球を始めた時から、ポジションはキャッチャーでした。

━━プロ2年目以降、徐々に結果を残されてきましたが、当時のことは覚えていますか?子供の頃からずっと野球をやっていたのですか?

正直、全く手応えはなかったですね。1軍と2軍を行き来する生活が、4年ほど続きました。そういう意味では、「うまくいっている」という感覚はありませんでした。

━━その状況の中で、どのように答えを見つけていったのでしょうか?

やはりプロ野球は「結果がすべて」の世界です。プロセスがどうだったかではなく、「どうやって結果を出すか」。その一点だけを考えていました。


評価を原動力に変える自己マネジメント】

━━競技生活の中で、どのようにしてモチベーションを維持し続けていましたか?

「認められたい」「野球選手として一流だと認められたい」。それだけでした。野球選手として成功したいという気持ちが、常に原動力でした。

━━それは周囲の評価という意味でしょうか。それとも年俸という意味でしょうか?

両方です。野球選手の価値は年俸で表される部分が大きいと思います。金額が上がるということは、それだけ評価されているということですし、そこは明確にリンクしています。

━━2002年には規定打席に到達。30歳で大ブレイクできた要因は何だったのでしょうか?

一番は金森栄治さんとの出会いです。28歳か29歳頃から一緒に取り組んできたことが、30歳で花開いたのだと思います。

━━金森コーチとは、技術面とメンタル面、どちらを中心に取り組まれたのでしょうか?

基本的には技術面ですね。


体と向き合い、試合に出続けるための哲学】

━━2014年のオフには右膝の手術も経験されています。ケガはつきものだと思うのですが、自分自身のメンタルをどう整えていましたか?

ケガは避けられない部分もありますが、常に考えていたのは「いかに試合に出続けられるか」ということです。大事なのは、ケガをした後にどれだけ早く復帰できるか。試合に出ていなければ評価されない世界ですから、ケガをしない工夫をしつつ、万が一ケガをしても、できるだけ短い時間で戻ることを意識していました。

──早く戻ろうとすることで、焦りにつながることはありませんでしたか?

それはなかったですね。仮に状態が8割でも戻ることを考えていましたし、それでパフォーマンスが落ちることはありませんでした。

──現役時代は食事管理にもかなり気を使われていましたか?

相当気を使っていました。現役時代はケガが多かったので、食事を根本的に見直すために栄養士の先生についてもらいました。食事内容やサプリメントも含めて少しでもケガのリスクを減らしたかったんです。 口にするものはコンディションを大きく左右しますし、同じ実力でも、食べるものが違えば差が出ますから。

──食べる量もかなり必要だったのではないでしょうか?

体が強い方ではなかったので、「何をどれだけ食べるか」よりも「何を食べるか」「体質をどう変えていくか」という視点で考えていましたね。

──具体的には、どのあたりを変えたのでしょうか?

一番意識したのは油です。人間の体にとって必要なものだからこそ、「いい油をどう摂るか」を考えました。できるだけ質のいい油を取り入れて、逆に悪い油は極力入れないようにしていました。

──手首の骨折なども経験されていますが、克服できた要因は何だったのでしょうか?

自分自身のメンタルもありましたが、球団のトレーナーさんをはじめとしたサポート体制の影響が大きかったです。手首の骨折の時は、当たりどころが悪く、復帰まで2ヶ月ほどかかると言われていました。 その中で、医療用の高圧酸素カプセルを探してくれるなど、周囲の方々が本当に支えてくれました。自分一人ではなく、チームとして支えてもらえたからこそ乗り越えられたと思います。プロスポーツ選手は、そういう意味で恵まれた環境にいると感じます。

和田一浩インタビュー 後編「不撓不屈の精神」42歳で進化し続け、2000本安打を導いた“原点”は〇月〇日公開予定


〈プロフィール〉


和田 一浩(わだ かずひろ)

1972年6月19日生まれ。日本の元プロ野球選手(外野手・捕手)。岐阜県岐阜市出身。

県立岐阜商業高校、東北福祉大学、神戸製鋼を経て、1996年にドラフト4位で捕手として西武ライオンズに入団。プロ入り後は打撃を活かすために外野手へ転向し、独特の極端なオープンスタンスから繰り出す確実性と長打力を兼ね備えたバッティングを武器に、球界屈指の強打者へと成長した。

2004年アテネ五輪および2006年WBC日本代表に選出され、日本の世界一にも貢献。2008年にFAで地元・中日ドラゴンズへ移籍した後も主力としてチームを牽引し、2010年にはリーグ優勝の立役者としてMVPを受賞。2015年には史上最年長(42歳11ヶ月)で通算2000本安打を達成するなど、不惑を超えても衰えぬ打撃でファンを魅了した。

FPメディア編集部

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