
「人が求める結果よりも、自分が求める結果を残すことを最優先にしなきゃいけない」
競泳界のレジェンド・北島康介さんが語る、重圧を力に変える「平常心」と世界で戦い抜くための思考法。
アテネ、北京と2大会連続でオリンピック2冠という歴史的偉業を成し遂げた、元競泳日本代表の北島康介さん。日本中が熱狂し、計り知れないプレッシャーがのしかかる大舞台においても、周囲の声に惑わされることなく、常に自分自身と向き合い最高の結果を出し続けてきました。
今回のインタビューでは、恩師・平井伯昌コーチとの二人三脚で歩んだ現役時代の裏側から、モチベーションとの向き合い方、プロとしての覚悟、そして経営者として描く「日本スポーツ界の未来」までを深掘り。トップアスリートとして第一線を走り続けた、圧倒的なメンタリティの源泉に迫ります。
【水泳しかない環境で向き合った挑戦】
━━現役時代に直面した最も困難な挑戦は何でしたか
正直なところ、「これが一番困難だった」と思うような出来事はあまりありませんでした。自分にとっては、水泳をやるしかない環境にずっといたので、その競技をする以外の選択肢がなかったんですよね。
だから、困難というよりも「やる気があるか、ないか」という問題だったのかなと思います。もちろん、その中でやる気が出ない時期もありましたよ。
━━ここまでのキャリアの中で、最も影響を受けた指導者やコーチはどなたですか
平井伯昌さんの名前を出さないとまずいですよね(笑)。学校の先生など、影響を受けた方は何人かいますが、やはり一番影響を受けたのは平井コーチですね。
中学生の頃から指導していただき、一緒にオリンピックという夢を描いて、それを形にしてきました。「師匠」と言えば師匠ですが、14~15歳の頃からずっと見てもらっているので、感覚としてはパートナーに近い存在です。自分が強くなるために、欠かせない人だったと思います。
リオオリンピックの選考会の時も、「最後にもう一度、平井コーチと一緒にオリンピックに行けたらいいな」と思っていました。

━━年齢を重ねるにつれて、コーチとの関係性は変わってきましたか
やっぱり変わっていくのが自然なことだと思います。
平井コーチは子供の頃、学生時代、大人になってからと、それぞれの段階に合った接し方をしてくださっていました。そこが平井コーチの本当に素晴らしいところだと思います。
あとは学校の先生など、自分の進学やキャリアを一緒に考えてくれた方々にも支えられて競技を続けることができました。どうしても平井コーチの存在が大きくなりますが、支えてくださった方は本当に多かったです。
━━平井コーチや学校の先生以外に、影響を受けた方はいらっしゃいますか
アメリカ留学時代に指導を受けたデーブ・サロというコーチは、自分の水泳観を大きく広げてくれましたね。
キャリアの終盤、金メダルを2つ獲った後にアメリカへ行ったのですが、その頃は正直「もう水泳をしなくてもいいかな」と思っていた時期でもありました。そんな時に彼は「もう十分、国のためにやったんだから、これからは自分のためにやればいい」と声をかけてくれたんです。
多くの海外の選手と一緒に泳ぐ中で、日本にいると考え方がどうしても狭く、閉鎖的になりがちだったということに気づきました。アメリカで、スポーツや水泳との関わり方に実際に触れたことで、自分の視野は確実に広がったと思います。
━━日本とアメリカでは、スポーツに対する考え方が違いますよね
日本には、日本の良さがあると思います。多少なりとも教育的な視点が含まれているというか、スポーツは人を育てるもの、という意識がありますよね。
僕が特に違いを感じたのは、指導者と選手の関係性です。アメリカでは役割分担がはっきりしていて、それぞれが専門家として機能しているなと感じました。そうした違いを体感できたことも含めて、アメリカでトレーニングをした期間はとても良い経験でした。

【プロアスリートへの憧れ】
━━水泳で生きていこうと決意したのは、いつ頃だったのでしょうか
はっきり「この瞬間」と言えるタイミングはなかなか難しいのですが、高校生くらいの頃から、プロスポーツの世界への憧れは強く持っていました。
高校3年生の時に初めてオリンピックに出場したんですが、その頃からプロゴルファーやプロ野球選手など、「プロ」とつくアスリートに強い憧れを抱くようになりました。自分もいつか、そういう立場で競技に向き合えたらいいなという夢は、高校生の頃からありましたね。
━━今から20年以上前になりますが、当時水泳界に「プロ契約」という制度はあったのでしょうか
規則上はありました。例えば、国際大会で3位以内に入るといった条件があったり、肖像権を自分で管理できる仕組みがあったりしました。ただ、制度としてはかなり曖昧だったと思います。
僕の時代は、学生スポーツという色合いがとても強く、オリンピックや世界水泳の代表になるような選手以外は、早い段階で引退していくケースがほとんどでした。
そういう意味では、僕がプロになったことで現役の年齢を引き上げられたのは良かったと思います。

【水泳中心の学生時代】
━━小学校の頃は塾などで忙しかったと伺いましたが、水泳との両立はどのように考えていましたか
正直、うまく折り合いはつけられていませんでしたね(笑)。完全に水泳中心の生活だったので、他の習い事はあまりやりたいと思っていませんでした。
中学生くらいまでは塾にも通っていましたが、勉強が特別好きだったわけでもなくて。両親には「水泳で全国一になるから迷惑はかけない」と約束して、水泳に集中することを選びました。
その中で平井コーチと出会って、「本気で勝つなら、やっぱり競技に集中しないといけないんだな」ということを実感しましたね。
━━高校進学の際も、水泳を第一に考えて選ばれたのでしょうか
自然とそういう環境になっていました。プールと学校が隣接していたんです。出身高校には水泳部はありましたが、校内にプールがなかったので、学校から歩いてすぐの東京スイミングセンターで練習していました。
授業前に早朝から朝8時まで泳いで、授業が終わってからは夜9時頃まで再び泳ぐ、そんな生活でした。
━━高校時代までに、水泳を辞めたいと思ったり、距離を置きたいと感じた時期はありましたか
ないですね。辞めたいと思ったことは、引退するまで一度もありませんでした。
引退を決めた理由は、世界で勝負できなくなったと感じたこと、そしてオリンピックに出場できなかったことが大きかったです。

【モチベーションとの向き合い方】
━━競技生活の中で、どのようにしてモチベーションを維持し続けていましたか
モチベーションをどう保つか、ということはあまり考えたことはないんです。
ダメな時はダメだし、その波をどう理解して、どうコントロールするかの方が大事だと思っていました。
ずっと「金メダルを取りたい」という気持ちだけで頑張り続けるのは不可能ですからね。なので、4年に一度のオリンピックから逆算して、この時期にはこういう状態でいたい、という大まかな目標を立てていました。
例えば病気やケガをすれば、モチベーションは下がるじゃないですか。 そういう時は、「今の状況で自分に何ができるか」を考える。その時にできることをやる、という感覚です。
この大会ではこういう結果を残したい、体はこの状態まで持っていきたいとか。その都度目標を設定しながら取り組んでいましたね。
━━アテネ、北京で2種目金メダルという快挙を達成されましたが、アテネ後もロンドンまで第一線で戦い続けられた要因は何だと思いますか
やっぱり「4年間をどう過ごすか」という感覚が、経験として体に染みついていたことだと思います。
この時期は結果を求めないで体をしっかり追い込もうとか、ここは仕上げていく時期だとか、そういう区切りですね。
ただ、どれだけ努力しても結果が保証される世界ではありません。「これだけやれば金メダルが取れます」という明確な答えがあるわけでもないですからね。
むしろその不安の方が強かったかもしれません。アスリートは、結果が見えないものに対してコミットし続けなければならない世界だと思っています。
━━結果を求める周囲の声もあったと思いますが、あまり聞かないようにされていましたか
どうだったでしょうね。当時は今ほどSNSも発達していなかったですし、そういう意味ではいい時代だったなと思います。
僕自身、承認欲求も特にありませんでしたし(笑)、自然と自分が聞きたくない声からは距離を取る環境を作っていましたね。
試合前になると、1ヶ月以上海外で合宿をして、競技に集中する生活でしたから、余計な情報が入ってくることもほとんどなかったですね。
━━水泳は反復練習が多く、自分を極限まで追い込む競技という印象があります。現役時代、ご自身ではどのように捉えていましたか
若い頃は本当にたくさん泳ぎました。1日に2万メートルを3回練習とか。
どこかでリミッターを外さないと無理です。「やるぞ」っていう気合いだけではなく、ある種の感覚的な部分も大きかったと思います。
平泳ぎは特性上、膝や肘、肩への負担が大きい種目です。やり過ぎると故障のリスクも高くなるので、体の状態を見ながら常に調整していました。
高地トレーニングも、当時はまだ一般的ではなかったんですが、かなり早い段階で、僕が初めて本格的に取り入れたと思います。アメリカのアリゾナで、泳ぐ場所も宿泊場所も高地という環境でトレーニングをしていましたね。
━━高地トレーニングを経て平地に戻ると、体の感覚は変わりましたか
それが、僕はまったく変わらないんですよ(笑)。感覚的には平地に戻っても一緒でしたね。
血中酸素濃度やヘモグロビンの量を測ったりはしていましたが、劇的に何かが変わる、という感じでもなかったですね。
【世界との戦いと、日本代表としての誇り】
━━海外の選手と比べて、フィジカルの違いなどを感じたことはありますか
身長2メートル以上の選手もいますし、正直パワーじゃ勝てないなと思うことはありましたよ。僕自身も大きい方じゃないので。ただ、水泳の場合は水の抵抗があるので、身体が大きいとその分、抵抗も大きくなります。
僕は技術で勝負できる種目だったので、技術力を高めて、効率良く速く泳ぐことを意識していました。
━━世界の舞台で力を発揮できた要因はどこにあったと思いますか
一番は、楽しめていたことだと思います。大きな舞台になればなるほど、自分を奮い立たせることができました。
高校3年の時に初めてオリンピックを経験できたことも大きかったと思います。その時は4位で結果を残せず、すごく悔しい思いをしました。その悔しさから「世界一になりたい」という目標が生まれました。
大きい舞台ほど、すごく楽しかったですね。
━━オリンピックの出場を重ねるごとに、チーム内での立場も変わっていったように思います。その点で意識されていたことはありますか
自分が望んだわけではないですが、水泳界の“顔”のような立場になっていた部分はあったと思います。だからこそ、先輩も後輩も、「北島康介」というポジションをすごく大事にしてくれていました。
だからといってそれに甘えるのではなく、結果を出し続けることは常に意識していました。やっぱり結果を残すことが、日本チームを引っ張っていく一番の力になると思っていましたし、後輩たちが「私もできる」「俺もできる」と思えるような存在になれたのが嬉しかったです。
キャプテンだからといって、別に何か特別なことをするわけではありません。みんな一人一人がプレイヤー。中にはライバルもいますし、仲良しこよしというより、「本気で世界と勝負するぞ!」という空気感で、チームとして一致団結していたと思います。
━━オリンピックと世界選手権はやはり違うものですか
全然違いますね。世界選手権は2年おきに開催されるので、すぐ次のチャンスが来ます。
そういう意味で、オリンピックはやっぱり重いですね。競技会の中で一番のビッグイベントですから。世界選手権ももちろん大事な大会ですが、オリンピックの方が楽しいですね。
北島康介インタビュー 後編 「人が求める結果よりも、自分が求める結果を残す」
〈プロフィール〉

北島 康介(きたじま こうすけ)
1982年9月22日生まれ。日本の元競泳選手(平泳ぎ)。東京都荒川区出身。
本郷高校、日本体育大学を経て、日本コカ・コーラに所属。2000年のシドニー五輪100m平泳ぎで4位に入賞。続く2004年アテネ五輪、2008年北京五輪において、100mおよび200m平泳ぎで2大会連続の個人種目2冠という日本競泳史上初の快挙を達成した。
2012年ロンドン五輪では400mメドレーリレーで銀メダルを獲得し、チームの躍進に貢献。現役時代は平泳ぎ両種目で幾度も世界新記録を樹立しており、2016年4月に現役を引退するまで、五輪4大会連続出場など輝かしい実績を残して日本の水泳界を牽引し続けた。
現在は会社経営の傍ら、東京都水泳協会会長ならびにJOC国際委員を務めている。
