和田一浩インタビュー前編「不撓不屈の精神」42歳で進化し続け、2000本安打を導いた“原点”の後編です。

【年齢を言い訳にしない進化】
━━30代以降、より充実した時期を迎えられた要因はどこにあったと感じていますか
一番は、あまり先のことを考えすぎなかったことだと思います。がむしゃらに取り組んできたことの積み重ねですね。
20代の頃は、食事面も含めて危機感が足りなかったと思います。でも、30代になると、「あと何試合出られるだろう」と意識するようになりました。1年に143試合という上限がありますから。さらに40歳が近づくと、「あと何年野球ができるのか」と考えるようになり、残り200試合か300試合か、と、現実的な危機感を持つようになりました。
だからこそ、その日その日を悔いなく、目一杯やり切ろうという気持ちで取り組んでいました。
━━42歳で月間MVPを獲得されるなど、現役時代の最後まで進化し続けている印象があります。そこまで進化できた要因はなんだったのでしょうか
年齢というのは、後からついてくるものだと思っています。「最年長で2000本安打」という評価も、後から振り返って語られるものです。プレーしている最中に年齢を意識することはありません。
18歳で高校から入ってきた選手とも、同じ土俵で勝負します。ファンの方も「何歳だから」ではなく、「誰が勝利に貢献できるか」という視点で選手を見ていると思います。
あとは、走れたことも大きかったですね。どんな時でも全力疾走することを大事にしていました。多くの選手はどこかでセーブしますが、セーブすると衰えは早くなります。衰えさせないためには、100%の力で走ることが必要だと意識していました。
━━長く現役生活を続けられた要因はどこにあると思いますか
谷繁元信さんをはじめ、僕が見てきた先輩方は、皆さんよく練習されていました。その姿を日常的に見ていたので、「全力でやること」が当たり前になっていたんです。そういった環境に身を置けたことは、大きかったと思います。
━━2015年に2000本安打を達成されました。記録が近づくにつれて、重圧はありましたか
重圧は全くなかったですね。残り15本で新シーズンに入ったので、「そのうち打てるだろう」と思っていました。そもそも、自分が2000本打つなんて想像もしていませんでした。
目の前のことを一生懸命やってきた結果が2000本だった、という感覚です。目標にしていたわけではないので、「到達してしまったんだな」くらいの感じなんですよ。
━━少し時間が経ってから、実感が湧いてくるものでしょうか
自分が打つ前だったら、ものすごい数字だと思ったはずです。でも自分が達成したことで、「積み重ねの結果なんだな」という感覚の方が強いですね。プロに入る時に「2000本安打が目標です」と言う選手はいないと思います。本当に続けてきた結果だと思います。
日本代表で求められた「短期決戦の覚悟」
━━アテネオリンピック、WBCと日本代表に選出されています。所属チームとの役割の違いを感じることはありましたか
一番の違いは、短期間で結果を出さなければならない点です。少しでも結果が出なければ、すぐに外される。その現実を受け入れなくてはなりませんでした。ペナントレースであれば、多少の不調でも監督が様子を見て使ってくれることがありますが、代表であればそうはいきません。我慢しなければならないことは多かったですね。
代表では、自分の活躍よりも第一目標は「メダルを獲ること」です。所属チームでは、それぞれが自分の価値を高めてお金を稼ぐために頑張る人が集まって、結果として優勝につながる。代表はお金や評価ではなく、世界一になることが最優先。そのためには犠牲心が必要だと強く感じました。
━━やはり、日の丸を背負うことは特別でしたか
特にオリンピックはそうですね。君が代が流れた瞬間、ジーンときましたし、チームで戦う時とはまったく違う感覚でした。
━━2006年のWBCは王監督のもと、注目度もより高かった印象です。オリンピックとWBCは違いましたか
2006年は第1回のWBCだったので、大会としての価値がまだ定まっていない時期でした。世界一を決める大会ではありましたが、システムも含めて確立途上だったと思います。
その点、オリンピックは長い歴史があり、メダルの価値も非常に大きい。重みという意味では、やはりオリンピックだと思います。
━━海外の選手と対峙する中で、プレースタイルや考え方の違いを感じることはありましたか
かなり違いを感じましたね。海外は個人の能力が非常に高くて、それぞれが自分のパフォーマンスを最大限発揮して勝つスタイル。一方、日本は体格やパワーでは劣る部分はありますが、勝つための戦略や戦術、組織力は非常に高いと思います。
海外の野球は派手さや個の魅力で観客を魅了する部分がありますし、日本の野球はチームとして勝ちに行く力が強い。これは文化の違いですね。
━━重圧やプレッシャーと、どのように向き合っていましたか
真っ向勝負でした。力と力で勝負したいという思いが強かったですね。そのために技術を磨いていたし、練習を重ねて、武器をたくさん持った状態でバッターボックスに立つことを意識していました。
━━成功のために意識していた習慣やルーティンはありますか
「いかに同じ生活リズムを作るか」ですかね。ナイターや移動があっても、寝る時間、起きる時間、行動をできるだけ一定に保つことを意識していました。
━━ナイターが続くと、夜型になりがちではありませんか
年齢を重ねるにつれて、試合後に外出することも減りましたね。ナイターが終わったら食事をして、できるだけデーゲームと同じ時間に寝たり。ナイターの日でも、朝は7時や8時には起きるようにしていました。
━━監督や戦術によって求められる役割が変わる中で、順応するために意識していたことはありますか
監督がどういうプレーを求めているかということは常に考えていました。僕の場合は長打を求められていたので、「打つこと」に特化して練習していました。
自分がどこでアピールできる選手なのかを常に理解していれば、チームの中で必要なパーツになれる。少なくとも、自分は「打つこと」に関してはトップでいれば、必ず必要とされると思っていました。
━━ご自身のプレーを映像で振り返ることはありましたか
よく振り返っていましたね。自分がイメージしている通りの動きができているか。イメージと映像が一致する選手が、いい選手だと思っていたので、映像は積極的に活用するべきだと思います。
━━2007年にFAで中日へ移籍されました。地元・岐阜に近いことも決め手でしたか
小さい頃からファンだった球団でした。FAしたときに声をかけてくれるかは分からなかったのですが、実際に声をかけてもらえて。地元でプレーできることは、モチベーションにつながりました。
━━背番号へのこだわりはありますか
すごく強いこだわりがあるわけではありません。野球選手で全くこだわりがない選手はいないと思うので、人並みにはありました。他の選手がつけている番号を譲ってもらうほどではないですが、でも空いていればその番号をつけたい、という程度ですね。
━━中高生への指導をする立場になることもあると思います。意識されていることはありますか
僕自身、高校も大学もそこまで厳しい環境ではありませんでした。だから、厳しくすれば上達するという感覚はなくて、いわゆる昭和的な指導法の感覚は、あまり持っていないです。
それよりも、「何を求めているのか」「何を考えているのか」を感じ取ることを大事にしています。指導していて食いつきがいい時は、「今はこれを求めているんだな」と思いますし、そっぽ向いている時は、ガツガツいかないようにするとか。そのアンテナを張ることを大切にしています。

「不撓不屈」が支えてきたもの
━━お金をどのように管理されていますか
基本的には税理士さんに相談しています。
以前は投資もしていましたが、リーマンショック以降はちょっと控えていますね。
━━投資をしていた頃は、どのようなものを選んでいましたか
外貨であったり、比較的利率の高いものですね。できるだけ値動きの波が大きくないものを選ぶようにはしていました。
リーマンショックのときも含み損は抱えましたが、長期目線で考えていたので結果実損はしていないのですが、以降はより慎重になりましたね。
━━年齢を重ねたり、立場が変わったりする中で、お金の使い方は変わりましたか
大きく変わりました。見栄を張らなくなりました。
現役時代は、いい車であったり、高いホテルであったりにこだわった時期もありました。でも今は、高級車がそこまで必要だとは思いませんし、ホテルも寝られれば十分です(笑)。
もちろん、必要なお金は使うべきだと思っていますが、「何のために使うのか」を考えるようになりました。
━━若い頃に、お金について学ぶ機会があればよかったと思いますか
それは、絶対にあったほうがいいと思います。野球選手は、一気に大きなお金を手にすることがありますから。「お金がお金を生む使い方」をしておけばよかったな、と自分の経験を通じて感じています。
若い頃に知識があれば、もっといいお金の使い方ができていたと思いますね。
━━選手時代、チームメイトと資産運用やお金の話をすることはありましたか
現役時代はあまりなかったですね。むしろ引退後のほうが、そういった話を聞く機会は多いです。
━━投資に対してはどのようなイメージをお持ちですか
「お金が減らない管理」をしたい、という思いが強いです。何もしなければ、物価が上がることでお金の価値は下がってしまいますから。価値を守るための管理は必要だと思っています。
ただ、正直に言うと知識が十分ではないので、まだ怖さもありますね。
━━野球選手になっていなかったら、どんな職業についていたと思いますか
正直、全くイメージしたことがなくて、想像がつかないです。
いや、でもあえて言うなら釣り人ですかね(笑)。磯釣りが好きで、伊東によく行きます。簡単ではなく、創意工夫が必要な釣りが好きなんです。

━━座右の銘を教えてください
出身校である岐阜商業高等学校の校訓でもあるのですが、「不撓不屈」です。サインにも書きますし、高校時代からこの言葉が自分の中に深く根付いていますね。
〈プロフィール〉

和田 一浩(わだ かずひろ)
1972年6月19日生まれ。日本の元プロ野球選手(外野手・捕手)。岐阜県岐阜市出身。
県立岐阜商業高校、東北福祉大学、神戸製鋼を経て、1996年にドラフト4位で捕手として西武ライオンズに入団。プロ入り後は打撃を活かすために外野手へ転向し、独特の極端なオープンスタンスから繰り出す確実性と長打力を兼ね備えたバッティングを武器に、球界屈指の強打者へと成長した。
2004年アテネ五輪および2006年WBC日本代表に選出され、日本の世界一にも貢献。2008年にFAで地元・中日ドラゴンズへ移籍した後も主力としてチームを牽引し、2010年にはリーグ優勝の立役者としてMVPを受賞。2015年には史上最年長(42歳11ヶ月)で通算2000本安打を達成するなど、不惑を超えても衰えぬ打撃でファンを魅了した。