
「選手権に出たい」それが、プロサッカー選手・室屋成の原点だった。
プロを意識したわけではなかった。ただ、兄の背中を追いかけ、全国高校サッカー選手権の舞台に憧れた少年は、中学時代に偶然の出会いから、青森山田高校への道を選ぶ。
大阪から遠く離れた雪国での生活、100人を超える部員の中での競争、そしてサイドバックへの転向。すべては、自分を知ってもらうため、自分の可能性を広げるための挑戦だった。
明治大学、FC東京、ドイツ・ハノーファー。壁にぶつかるたびに、「本当にこれでいいのか」と問い続けた。
プレーの強度、走力、言葉、そして意志。自身の価値を証明し続けてきた室屋が、今、改めてサッカーと向き合う理由とは何か。
本インタビューでは、室屋成選手のキャリアを支えたターニングポイント、ケガとの向き合い方、そして海外挑戦を通して得たものに迫る。
「サッカー」について
━━青森山田高校から明治大学を経てプロの道へ。出身地の大阪府から青森県の学校に進学した経緯はどういうものだったのでしょうか
僕が中学生の時に奈良県で開催されたインターハイに、青森山田高校が出場していて、練習試合をする上で選手が足りないということで、声をかけてもらいました。
当時の黒田剛監督(現FC町田ゼルビア監督)は大阪体育大学出身で、当時僕が所属していたサッカー部の監督も同大学出身という縁がありました。正直なところ、最初はあまり乗り気ではなかったのですが、練習試合でのプレーを気に入ってもらえたのがきっかけで、それが転機になりました。
もともと、兄が全国高校サッカー選手権大会に出場していて、東京まで応援に行ったことがあり、選手権には憧れていました。プロになりたいというより、選手権に出たいという気持ちでした。
青森山田高校なら3年間のどこかで出場チャンスがあるのでは? という単純な考えから、青森の学校に行くことを決めましたね。
━━大阪府とは気候も違いますよね
そうですね。初めて行ったのはたしか3月だったと思いますが、まだ雪が降っていて「ヤバい所に来てしまったかも」と思いましたね(笑)。
━━部員数の多い青森山田高校で、どのように自分をアピールしたのでしょうか
部員は100人以上いましたね。僕は、中学生時代は有名な選手ではなかったので、最初はCチームやDチームでした。
そもそも監督の目に留まるチャンスが少なかった。そんな中、僕は体力には自信があったので、持久走ではチーム内でいつもトップでした。1,500メートル走ではAチームの選手も含めた全チームの中で1位になったりして、とにかく得意なことで目立って、まずは名前を覚えてもらうことに力を入れました。

━━サイドバックを打診された時、戸惑いはありましたか
中学時代はボランチやサイドハーフをやっていましたが、高校2年生でU-16日本代表に選ばれて、その時に初めてサイドバックを任されました。
その経験をきっかけに、そのまま青森山田高校でもサイドバックをやるようになった感じです。抵抗はなくて、「これで生き残れるなら」という新たな可能性に気づけた感覚がありましたし、「学んでいこう」と前向きな気持ちで取り組んでいましたね。
━━プロの選択肢もあった中で、強豪・明治大学サッカー部への進学を選んだ背景を教えてください
僕は、中学時代は無名で、高校時代もそこまで注目される選手ではなかったのに、突然代表に選ばれて名前だけが飛躍してしまった感じがあって、自分としては実力が伴っていない気がして、高校卒業後すぐにプロの世界に行くのは違和感がありました。
あとは、日本の大学は多くの選手をプロに送り出していて、サッカーだけじゃなく、学業と両立して取り組める環境に魅力を感じたことが決め手です。
━━実績のある選手が揃う明治大学サッカー部での環境をどう感じていましたか
自分の得意なプレーをもっと出せるように意識したり、苦手な部分を練習したりしましたね。
あとは、自分のストロングポイントをどれだけ見せられるかを考えていました。例えば、走りやプレーの強度という面ですね。
━━当時、FC東京のポポヴィッチ監督から誘いを受けたという話もありますが、当時の心境はいかがでしたか
正直、大学を辞めてすぐプロに行こうかという考えもよぎりましたが、自分の意思で明治大学を選択したからには、中退してまでプロを目指すというのは違うなと思い、お断りをしました。
もちろん、魅力的ではありましたが。

━━海外でプレーしたいという意識は常にありましたか
子供の頃のアルバムを見返すと「海外でサッカーをする」みたいなことは書いてありましたが、正直、自分ではあまり覚えていません(笑)。
そもそもプロになれるなんて思っていなかったので、海外への意識もそこまで強くはなかったですね。
━━プロになるという覚悟を持ったのは、いつ頃でしたか
「覚悟」というのは口に出すのは簡単ですが、常にどこか不安な部分があります。
その不安な部分と戦い続けるような感覚です。常に壁があって、ひとつ乗り越えるとまた次の壁があって・・・、ずっとそんな感じです。プロになってからも同じで、「通用するようになった」と思ったらまた別の壁が現れて、ずっとそれに立ち向かっている感覚ですね。
━━FC東京に加入直後に中足骨骨折の大ケガ。この時の心境はいかがでしたか
ショックでした。治療には時間もかかりましたし、シーズンの半分をリハビリに費やしてしまいました。
オリンピックのアジア予選で優勝して自信を持ってプレーできていたタイミングでケガをしてしまったので、「また大きな壁ができた」と強く感じたことは覚えています。
━━その他にもケガはありましたが、どのようにケガと向き合っていましたか
僕の場合、ケガで離脱するのは長くても3~4カ月でした。なので、この期間で「自分には何ができるだろう」と前向きに考え、トレーニングにフォーカスしました。
ケガ自体は割り切れますが、逆にケガをしていないのに試合に出られない時期のほうが焦りや自分に対する怒りのようなものが強かったです。
━━ドイツ・ハノーファー96への移籍。サッカーの面で自身の想像とのギャップはありましたか
現地に行くと自分は「助っ人外国人」という立場になります。チームが負けると「まだ戦術を理解していない」という理由で最初にメンバーから外されるのは僕。現地の人からすると、それが一番スムーズだったと思います。最初はそこが苦しかったですね。
ドイツのチームとはいえみんな選手は英語が話せたので、毎日英語を勉強しました。自分が理解できていることを主張しようと、練習中でも積極的に意見を言って、時には敢えてぶつかってみるなどして、コミュニケーションの部分をすごく意識しました。
━━生活面ではいかがでしたか
ドイツに行く前は東京に住んでいたので、常に慌ただしかったです。
近くにコンビニもあるし便利ではあるのですが。でもドイツでは日曜はスーパーが閉まるし、全体的にスローライフでしたね。最初は不便さを感じましたが、住み続けるうちに段々と慣れてきて、精神的にもゆったりした時間を過ごせたのはいい経験でした。
その一方で、サッカーへの熱量はすごいものがありました。それも含めていい経験でした。
━━ハノーファー96に移籍する際は悩みましたか
Jリーグでベストイレブンに選出してもらってから、「サッカーだけではなくて、海外での生活にもチャレンジしてみたい」という気持ちが芽生えてきていたので、そこまで悩みませんでした。
実際にドイツでの生活は言葉がある程度分かるようになると、今まで感じたことのない発見や、知らない世界を知ることができたので、本当にいい経験だったなと思います。

━━助言をもらった人はいましたか
助言というわけではないかもしれませんが、幼なじみに南野拓実(現ASモナコ)がいて、「あいつも頑張っているから負けていられない」という気持ちになりましたね。
頻繁に会うし連絡もたびたび取るし、海外に行く時も生活についていろいろ聞いたりしました。
━━海外でプレーする上で最も大切だと思ったことは何ですか
やはり言葉じゃないでしょうか。
サッカーの高いスキルがあることはもちろんですが、コミュニケーションは本当に大事だと思います。プレーからだけでは見えない部分もあるし、外国人選手や監督、コーチとのコミュニケーションを通じて学ぶことや、日本では得られない気づきもありました。
自分の意見をしっかり伝えるということは本当に大事だと実感しました。
チームメイトやクラブとのマネジメント
━━FC東京に復帰する際は悩みましたか
30歳になったらJリーグに戻りたいという気持ちは以前からありました。
実際には契約期間の関係で31歳になってから戻ることになりましたけどね。もちろん、東京に戻れるのが一番と思ってはいたものの、選手の編成やクラブの都合などタイミングが合わないケースもあることは想定していました。
その状況で、強化部の方がドイツのハノーファーまで直接会いに来てくれて、自分への思いを伝えてくれました。タイミングも合いましたし、それはすごく感謝しています。
━━「30歳で戻りたい」というのは年齢的な区切りが理由だったのでしょうか
ドイツでの生活を通じて「自分は日本人なんだ」ということをより強く意識するようになりました。日本人としてどう生きるかみたいな感じでしょうか。
同時に、誇りのようなものも感じましたね。日本人として、日本でプレーするのが重要だと思うようになって、「動けるうちに日本でプレーしたい」という気持ちが強くなりました。
━━2012年デュッセルドルフ国際ユースサッカー、U-23日本代表などのカテゴリーで代表に選出されましたが、意識は変わりましたか
当時は「日本を背負う」みたいな感覚はあまり持っていませんでした。
僕の場合、日本のためにサッカーをしているというより、自分が主体でサッカーをしていて、その延長に代表というものがついてきている感じでした。
なので、当時は海外でプレーをしていても、「自分が日本を代表している」という意識はあまりありませんでしたが、チームメイトから「日本はどんな国だ」とか「どんな宗教なんだ」と聞かれて、うまく答えられなかった時、自分は日本人としてどうなのだろう?と考えるようになりましたね。

━━モチベーションの維持や日常生活で心がけていることはありますか
サッカーが本当に大好きなので、モチベーションについては考える必要がないです。日によって疲れていると感じることはあっても、ボールを触れば楽しくなるし、試合が始まれば自然と闘志が湧いてきます。
そう感じられるうちはまだまだサッカーを続けたいです。
━━自身の試合のVTRは見返すタイプですか
そうですね、試合後に代理人が編集してくれる映像があるので見ますね。
良いところも悪いところも含めて自分を見つめ直すきっかけになるから、なるべく見るようにしています。
重圧との向き合い方
━━代表などでのプレッシャーとは常に背中合わせだと思いますが、どのように向き合っていましたか
10代や20代の前半は「重圧に打ち勝とう」とか「飲まれないように」とか、試合中でもいろいろと揺れていました。
ただ、最近は単純にプレッシャーや恐怖のような感情を素直に見つめるみたいな、受け止めるみたいな感覚でいるようにしています。その方が自分には合っていて、変に力んだり戦ったりせず、受け入れるようにすると怖くなくなります。
━━ご自身のベストゲームは
2018年4月11日の鹿島アントラーズ戦でゴールを決めて勝った試合です。
長谷川健太監督の時ですね。しばらくベンチが続いてなかなか出場機会がない状況からチャンスをもらえて、結果を出すことができた。自分に打ち勝てたという感覚がありました。

お金との向き合い方
━━お金の使い方や考え方は年齢とともに変わってきましたか
基本的にはあまり変わっていないですね。そこまで貯金ばかりになるのも嫌で、楽しいことにはちゃんと使いたいですから。
━━管理はご自身でされていますか
自分でやっています。
━━海外の選手はいろいろと資産運用をしているイメージがありますが、チームメイトと話す機会はありましたか
周りの選手は運用していましたね。
ビットコインから株から。僕はインデックス投資くらいかな・・・、これからですね。勉強したいです。
最後に
━━現在の目標は
現時点だと、日本に帰ってきたばかりなので、まずは慣れることが一番です。
使っているボールから芝生の質までドイツとは全然違うので。ドイツでやっていたからドイツが正しいとも思いませんし、どちらが正しいというわけでもありません。まずはJリーグのスタイルを受け止めて、そこで自分が学んできたものをミックスしていきたいと思っています。
チームとしては、ひとつでも上の順位へ上げなければならないので、そこはしっかりと見つめていきたいですね。
〈プロフィール〉

室屋 成(MUROYA SEI)
青森山田高校から明治大学を経て、2016年にFC東京へ加入。2020年にはドイツ・ハノーファー96に移籍し、ブンデスリーガ2部で3シーズンにわたりプレー。2024年、5年ぶりにFC東京へ復帰。世代別代表ではU-23日本代表としてリオデジャネイロ五輪に出場し、A代表にも選出されている。
豊富な運動量とスピードを活かした上下動、正確なクロス、1対1の強さを武器に、右サイドで攻守に貢献するサイドバック。ハードワークと献身性でチームを支える、信頼厚いディフェンダー。