
「プレッシャーは消すものではなくて、もしかしたら使うものなのかもしれません」
15歳で全日本代表入りを果たし、長年プレッシャーと隣り合わせのトップレベルで戦い続けてきた中田久美さん。
史上最年少での代表選出、大ケガによる長期離脱、そして女性初の全日本女子監督としての重圧。コートの内外で幾多の壁に直面しながらも、彼女は常に自分自身と向き合い、困難やプレッシャーを成長の糧へと変えてきました。
セッターとしての「人を活かす」哲学から、大学院での学び直し、さらには独自のキャリア観まで。重圧を味方につけ、バレーボールという枠を超えて自身の道を切り開く中田さんの深い人生観に迫ります。
【コートを離れた10カ月──選手人生を変えた大ケガ】
━━これまでで最も困難な挑戦は何でしたか
ケガからの復帰ですね。20歳の時に右膝をケガしました。前十字靱帯の断裂と半月板の損傷、さらに内側側副靱帯も痛めて、全治10ヶ月という診断を受けました。
当時は同じようなケガから復帰した例がなく、ほとんど「再起不能」と言われるような状況でした。
リハビリ期間は、本当にいろいろ考えさせられました。ケガそのものよりも、チームという”戦う集団”の中にいながら、自分だけが戦えないという現実がつらかったですね。自分がそこにいても「必要とされていないんじゃないか」と感じてしまうこともありました。
━━それまではずっとコートに立ち続けてきたわけですから、大きな環境の変化だったのではないでしょうか
そうですね。それまで私は、プレーをすることで自分の価値を証明してきたと思っていました。
だからこそ、コートに立てない時間は、自分の存在そのものを問われているような感覚でした。
いろいろな感情がありましたが、「戦えない時間も戦う時間にしなきゃいけないな」と思うようになりました。
━━リハビリ期間は、治療だけでなく自分に何ができるかを考える時間でもあったのでしょうか
振り返ってみると、あの時期があったからこそ得られたものは大きかったと思います。
その後、私はオリンピックに2度出場するんですが、もしあの経験がなかったら、セッターというポジションの本質や構造をここまで深く理解することはできなかったんじゃないかなと思います。
━━プロになりたい!と思ったのは、いつ頃だったのでしょうか
はっきりと「プロを目指そう」と思った時期があったわけではないんです。
ただ、漠然と「オリンピックに出たい」という思いはずっと強くありました。
最初は水泳をやっていたんですが、身長もだんだん伸びてきたこともあって、あと当時のアニメの影響もありバレーボールに興味を持つようになりました。
「プロとしてやっていこう」という意識は全くなくて、「バレーボールを通して自分の夢を実現したい」という思いが強く、そこで自分の生き方を決めました。
【史上最年少代表、キャリアの始まり】
━━15歳で史上最年少の全日本代表に選出されました。当時、戸惑いはありませんでしたか
戸惑いはもちろんありました。周りの方々は期待してくださっていましたが、自分自身は未完成な部分の方が多いと感じていました。
周囲の期待と自分が客観的に見た実力とのギャップは、すごく感じていましたね。

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━━そんなプレッシャーの中、どのようにやり抜いたのでしょうか
感情や環境に振り回されるのではなく、目標や夢を達成するための自分なりの基準を持つことを大切にしていました。言い換えると「ブレないこと」ですね。
環境にも恵まれていましたし、周囲の方々が守ってくださったおかげで、競技に没頭できたっていうのはすごく大きかったです。
━━苦しかった時期はありましたか
正直に言うと、毎日苦しかったですね。
実は、バレーボールをやっていて「楽しい」と思ったことは1度もないんです。
バレーボールはボールを落としちゃいけないという、ある意味、特殊なルールを持つ競技です。人と繋がりながらプレーをする競技ですし、仲間とボールをつないでいく意識も必要です。点数としては表れない部分に、この競技の面白さや難しさがあると思います。
同じ練習をしていても、同じシチュエーションは一度もありません。コンディションもメンタルの状態もやはり毎日違います。その中で、その日のベストをどう出すかをずっと考えていました。
1日10時間近く練習していましたから、疲労回復やコンディショニングについても常に考えていました。
いつも壁と向き合っているような感覚でしたね。「人をどう活かすのか」を考え続けていたので、エンジョイするという感覚ではなかったです。
━━チームを成長させるうえで大切にしていることはありますか
フィードバックを繰り返すことは、もちろん大事だと思うんですけど、それを次にどう活かすかが大切です。私は「フィードバック」を「フィードフォワード」に変えていくことが必要だと思っています。
そのためには、ある程度の練習量も必要ですし、チーム内のコミュニケーションも重要です。お互いをリスペクトすることや、多様性を受け入れる姿勢も大切ですね。
バレーボールという競技は、そういう要素が必然的に求められるスポーツだと思います。
━━中田さん自身、海外でプレーするという選択肢はありませんでしたか
海外からの誘いは来ていたんですよ。ただ、それは自分が引退を決めた後でした。
当時はもう自分の中でいっぱいいっぱいで、「もう辞めたい」という気持ちの方が強かったんです。だから海外に移籍するという選択肢はなかったですね。
【セッターという思考──「人を活かす」バレーボール】
━━セッターは相手や味方の状況を瞬時に見極める必要があるポジションだと思います。試合中に大切にしていた感覚はどんなことですか
人間って、目から入る情報をもとに行動していると思うんですね。だから私は、自チームの選手も相手チームの選手も、目線を読むことをすごく意識していました。
もちろん最初からできたわけではありません。ケガから復帰した後は、以前の感覚とのずれがあって、100%の状態には戻らなかったんです。
その差を埋めるために、観察や情報をより大事にするようになりました。自分の弱点を“読み”でカバーしながら、コートという空間の中でどういう「間」を作ってゲームを組み立てるのかを考えていたんです。
この「間」というのは、単にゆっくりプレーするという意味ではなくて、全体を俯瞰しながら、なおかつ相手よりも有利な状況をどう作るか、という感覚ですね。
相手の癖や味方の表情も瞬時に見ています。調子のいい選手は、その状態をできるだけ維持させたいですし、1本ブロックされただけで調子を落としてしまう選手もいます。
そういう時に、どの場面でその選手を使えばまた調子を取り戻せるのか、ということを考えながらプレーしていました。

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━━普段からの観察も大事になるんですね。
そうですね。コートの中だけに答えがあるわけではなくて、日常生活の中に答えやヒントがあることもすごく多いんです。
セッターっていうのは、ただトスを上げる人ではなくて、チームの空気や勢いを整える存在だと思っています。
だからこそ、まずは自分自身が安定していないといけない。自分の調子は二の次で、いつも整った状態でいることを意識していました。
【チームを動かす力──選手からマネジメントへ】
━━モチベーションの維持や日々の過ごし方で、意識していたことはありますか
モチベーションが大きく下がることはありませんでした。もちろん多少の波はあったとは思いますが、それに大きく左右されたことはほとんどないですね。
最低限、自分の役割は果たさなければいけない、という意識が常にありました。だからモチベーションを維持するために、特別に何かをしていたということはなかったと思います。
━━監督としてチームを率いるうえで、大切にしていることは何でしょうか
覚悟と責任だと思います。今は監督という立場なので、それがないとチームもぶれてしまいます。
前に出るべき時は前に出ますが、基本的には選手が中心です。選手の人生も含めて、挑戦をサポートしたり、後押しする立場でいたいな、と思っています。
その責任はすべて自分が持つという覚悟は、常に持っています。
━━故・山田重雄監督からの教えは、指導者として活きていますか
影響がないと言ったら嘘になります。
今はバレーボールもデータ化されていて、さまざまな分析が行われていますが、山田先生はそれをアナログの時代からやっていた方なんです。
私自身も、根性とか気合いだけじゃなくて、データバレーの考え方の中で育ってきました。もちろん最終的には気合いと根性も必要になりますけどね(笑)。
ただ、データの使い方や生かし方という部分では、山田先生から教えていただいたことが大きいと思っています。一方で、データに頼りすぎないことも大切だと思っています。
━━山田重雄監督との関係は、キャリアを重ねる中で変化していきましたか
現役の後半の方になると、ほとんど任せてもらっていました。選手起用から練習メニューまで、ほぼ自分がマネジメントしていたんです。
今、こうして監督という立場になってみると、「こういう段階を私に踏ませたかったんだな」ということがよく分かります。
15歳の頃と、引退する26、27歳の頃では、求められることは当然違いますから。
中田久美インタビュー 後編 「重圧を成長の糧に変えるマネジメント論」(2026/5/18公開)
〈プロフィール〉

中田 久美(なかだ くみ)
1965年9月3日生まれ。日本の元バレーボール選手(セッター)、元全日本女子代表監督。東京都練馬区出身。 15歳で実業団の強豪・日立(日立ベルフィーユ)に入部し、同年には当時の史上最年少で全日本代表に選出。以降、正セッターとして長年にわたり日本女子バレー界を牽引した。 オリンピックには3大会に出場し、1984年のロサンゼルス五輪では銅メダルを獲得。1988年ソウル五輪、1992年バルセロナ五輪(主将)でもチームを導き、国内リーグでも日立の黄金期を支え幾度もMVPを受賞した。引退後は指導者へ転身し、久光製薬スプリングス監督として4度のリーグ優勝を達成。2017年から全日本女子代表監督を務め、2021年の東京五輪で指揮を執るなど、選手と監督の両面で多大な功績を残した。
