
引退や後継者の不在をきっかけに、「自分のクリニックはいくらで売れるのか」を考える院長もいるでしょう。売却価格を知るには、年商だけでなく、引き継ぐ資産や診療を続けられる体制も確認する必要があります。
売却額と、税金・費用を差し引いた手取りは異なります。本記事では、M&A(合併・買収による事業の引き継ぎ)の価格目安と成約例を整理し、買い手の特徴、税金の違い、準備の進め方を解説します。
1. クリニック・診療所はいくらで売れるのか
1-1. 個人診療所は、3,000万〜4,000万円程度が概算の目安
個人診療所の売却価格は、3,000万〜4,000万円程度が概算として紹介されることがあります。ただし、これは全国の成約平均ではありません。引き継ぐ設備などの時価と、継続的な収益への評価である営業権を分けて考えることが基本です。
不動産を含むか、機器の更新が必要かでも金額は変わります。借入金が売り手に残る取引では、売却代金から返済する分も考慮する必要があります。
1-2. 医療法人は、1億〜1億5,000万円程度が概算の目安
医療法人の売却価格は、1億〜1億5,000万円程度という目安もありますが、法人であればこの価格になるわけではありません。
法人全体を承継するのか、一部の診療所を事業譲渡するのかによって、現預金や負債を含む範囲が変わります。同じ金額でも、何を引き継ぐ対価なのかをそろえて比較することが重要です。
2. 同じ売上でも、売却価格に差がつくのはなぜか
2-1. 院長の報酬を後任医師の給与に置き換えると、利益が変わる
買い手が知りたいのは、過去の利益だけでなく、院長交代後にも確保できる利益です。そのため、現在の院長の報酬と、後任医師に必要な人件費を調整して収益力を確認します。
個人診療所では、院長自身への給与は必要経費に計上されません。決算上の利益には院長の働きに対する報酬も含まれるため、それをそのまま買い手の利益とみなすと過大評価になります。
一方、医療法人では、計上済みの院長報酬を一度戻し、後任医師の人件費へ置き換える方法が考えられます。
たとえば、同じ年商1億円の診療所について、次の条件を仮定します。
| 比較項目 | 個人診療所A | 医療法人B |
|---|---|---|
| 決算上の利益 | 3,000万円 | 500万円 |
| 費用に計上済みの院長報酬 | なし | 3,000万円 |
| 後任医師の年間人件費 | 2,000万円 | 2,000万円 |
| 調整後の利益 | 1,000万円 | 1,500万円 |
| 調整後の利益率 | 10% | 15% |
上記は考え方を示すための仮定の計算例で、人件費には給与と事業主負担の社会保険料を含めています。それ以外の費用や売上は変わらない前提です。
この例では、見かけの利益が大きいAより、調整後はBの方が利益を残せます。後任医師を現実に採用できる条件で計算することが重要です。院長が担っていた経理や採用も引き継ぐなら、その費用を考慮します。
2-2. 院長がいなくても患者とスタッフが残るかで、営業権の評価が変わる
営業権には、立地、地域での評判、診療体制など、設備だけでは説明できない収益力が反映されます。しかし、患者が院長個人の技術や人柄を理由に通っている場合、その収益を交代後も維持できるとは限りません。
買い手は、再診患者の動向、他の医師による診療実績、看護師や受付担当者の継続勤務の見込みなどを確認します。担当医が変わっても診療の質や待ち時間が大きく変わらない体制は、将来の収入を見積もる材料になります。
患者やスタッフの継続を約束するのではなく、継続を支える仕組みを説明できることが大切です。担当医別の診療実績や職種ごとの在職状況など、裏付けのある資料が営業権を検討する材料になります。
2-3. 診療科と診療圏の将来の患者数見通しで、買い手の評価が変わる
現在の患者数が同じでも、将来の需要は診療科や地域によって異なります。診療圏とは、主に患者が通院してくる地域の範囲です。総人口だけでなく、自院の診療内容に関わる年齢層や競合の動きを確認します。
| 診療内容の例 | 評価時に確認したい地域の動き |
|---|---|
| 小児科 | 子どもの人口、住宅開発、近隣の小児科の開閉院 |
| 内科・在宅医療 | 高齢者人口、通院手段、訪問診療や病院との連携需要 |
| 整形外科 | リハビリ需要、送迎の必要性、競合の設備・診療体制 |
| 自由診療を中心とする医院 | 対象患者層、競合サービス、集患にかかる費用 |
高齢者が多い地域でも、交通の不便さや医師採用の難しさが評価を下げる場合があります。自治体の人口推計と実際の患者の居住地を照らし合わせ、地域全体の変化が自院にどう影響するかを見ましょう。
3. クリニック・診療所は誰が買うのか
3-1. 個人診療所は、承継開業を希望する勤務医が主な買い手
個人診療所の買い手として考えられるのは、既存の医院を引き継いで独立開業を目指す勤務医です。新規開業では、物件の確保や内装工事、医療機器導入など、初期投資と準備期間が必要になります。
一方、既存の診療所を承継する場合は、設備や診療体制を活用できるため、費用や負担を抑えて事業を始められる可能性があります。
ただし、買い手の専門分野と医院の診療内容が合わなければ、現在の患者を引き継ぐことは難しくなります。購入資金の融資だけでなく、開業後の生活費、運転資金、機器の入れ替え費用も買い手の判断に影響します。
希望価格だけで候補を絞らず、診療方針と資金計画が合う医師かを確認しましょう。個人診療所でも医療法人が譲り受けることはあり、買い手が勤務医に限られるわけではありません。
3-2. 医療法人は、複数院を展開する医療法人グループが主な買い手
医療法人グループは、診療拠点の拡大や医師の配置、在宅医療との連携などを目的として承継を検討します。既存の拠点から近い医院であれば、採用や事務の機能を共有しやすく、単独では難しかった診療体制を構築できる場合があります。
ただし、グループに入れば診療方針がそのまま維持されるとは限りません。院名、診療時間、スタッフの処遇、院長の退任時期など、残したい条件を価格と併せて交渉することが重要です。
また、社団医療法人の承継では、出資持分の移転と、経営を決める社員・理事の交代を区別する必要があります。ここでいう社員は従業員ではなく、社員総会で議決権を持つ構成員です。持分を譲るだけで、経営権が自動的に移るわけではありません。
3-3. 事業会社やファンドは、関連法人を通じた間接的な買い手になる
事業会社や投資ファンドが、医療機関の経営支援会社などへ投資し、承継に関与するケースもあります。たとえば、経理・採用支援や不動産賃貸を担うMS法人(メディカル・サービス法人)の株式取得などです。
関連会社を使う取引では、誰がその会社を取得するのかと、誰が診療所の開設・経営の責任を負うのかを分けて確認します。医療法人には非営利性が求められ、株式会社の子会社のように利益を配当することはできません。関連会社を使えば自由に医療法人を支配できる、という制度でもありません。
支援料や賃料が業務の実態に見合うか、医療法人が独立して意思決定できるかが重要です。提案を受けたら契約主体、資金の流れ、退任後の運営責任を整理し、医療法に詳しい専門家と所管行政庁に確認します。
4. 個人診療所と医療法人で、売却後の手取りはどう変わるか
以下では、2026年10月時点の税制を前提に、主な違いを整理します。
4-1. 個人診療所は事業譲渡となり、資産ごとに税金の扱いが異なる
個人診療所の売却は、医療機器や営業権などを引き継ぐ事業譲渡が基本です。代金全体に一つの税率を掛けるのではなく、何をいくらで譲渡したかに分けて税金を計算します。
| 譲渡するもの | 所得税の基本的な扱い |
|---|---|
| 営業権・通常の医療機器 | 原則として総合課税の譲渡所得 |
| 土地・建物 | 分離課税の譲渡所得 |
| 医薬品などの棚卸資産 | 事業所得 |
総合課税では、他の所得と合算して所得税を計算します。所得税と住民税を合わせた最高税率が約55%と説明されることがありますが、売却代金や譲渡益の全額に一律で55%がかかるという意味ではありません。復興特別所得税を含めると、所得の最も高い区分にかかる税率は、住民税の標準税率を前提に55.945%です。
総合課税の譲渡所得には、年間50万円の特別控除があります。所有期間が5年を超える長期譲渡所得では、控除後の金額の2分の1を他の所得と合算します。取得費や所有期間の判定により、実際の負担は変わります。
また、営業権や医療機器などの譲渡は消費税の課税対象になり得ます。保険診療が非課税であることと、事業用資産の売却時の扱いは異なります。納税義務の有無も含め、契約前に税理士へ確認しましょう。
4-2. 持分あり医療法人は、持分譲渡で約20%の分離課税になる
持分あり医療法人の出資持分を個人が第三者へ譲渡する際は、譲渡益に対して原則20.315%の申告分離課税が適用されます。所得税・復興特別所得税・住民税を合わせた税率で、他の所得と分けて計算します。
課税の対象は売却代金そのものではなく、取得費と譲渡費用を差し引いた利益です。仮に売却代金が1億円、持分の取得費が500万円、今回支払う譲渡費用が500万円なら、譲渡益は9,000万円、税額は約1,828万円です。
売却代金から今回の費用と税金を差し引くと、手取りは約7,672万円になります。取得費は税額を計算する際に差し引くものであり、過去に支払った取得費を、今回の入金から再び差し引くわけではありません。
上記は特例を考慮しない計算例です。極めて高額な所得がある場合の追加的な課税など、個別の適用関係は確認が必要です。
また、第三者への持分譲渡と、医療法人から持分の払戻しを受ける取引では、課税関係が異なります。払戻しには、配当とみなされる部分が生じることがあります。
4-3. 持分なし医療法人は、持分がないため、退職金で対価を受け取るのが一般的
持分なし医療法人では、売却できる出資持分がありません。経営を引き継ぐ際、退任する理事長への役員退職金の支給など、対価の受け取り方を検討します。
ただし、買い手との合意額を自由に退職金へ置き換えられるわけではありません。
退職金は、勤務期間や功績、報酬水準などに照らして妥当な額であることが必要です。不相当に高額な部分や、退職の実態・事業上の合理性を欠く処理には、税務上否認されるリスクがあります。法人の支払能力や必要な決議も確認します。
退職所得は原則として、退職金から退職所得控除を引いた残額の2分の1を基に、他の所得と分けて税額を計算します。ただし、役員としての勤続年数が5年以下に当たる退職金には、この2分の1の扱いがありません。
なお、医療法人が診療所を事業譲渡した場合、その代金は法人に入ります。理事長個人がそのまま受け取れる金銭ではないため、法人の承継価格と個人の受取額を分けて設計することが大切です。
5. 売却を考え始めたら、何から始めるべきか
5-1. 閉院を決める前に、売却した場合の価格を見積もる
閉院を公表し、スタッフの退職や設備の処分が進むと、診療所として引き継げるものが減り、売却の選択肢が狭まる可能性があります。
まずは診療を続けた状態で評価を受け、親族への承継、第三者への売却、閉院を比較検討しましょう。
初回相談では、次の資料をそろえると価格の根拠を確認しやすくなります。
・直近数年分の決算書・確定申告書と、最近の月次収支
・医療機器、不動産、借入金、リース契約の一覧
・診療科別の売上、患者数の推移、スタッフの職種と雇用条件
査定では金額だけでなく、譲渡対象、借入金の扱い、手数料、院長の継続勤務条件まで書面で確認します。仲介手数料は、何を計算の基準とするか、最低報酬があるかでも変わります。
相談先への秘密保持を確認し、候補先への情報開示は段階的に進めることも大切です。初期の検討には集計情報を使い、患者を特定できる情報を安易に渡さないようにします。
5-2. 引退の3〜5年前を目安に、院長がいなくても回る体制をつくる
診療所の売却や事業承継を円滑に進めるためには、院長の退任を見据え、早い段階から準備を始めることが重要です。
一般的には、引退予定の3〜5年前を目安に準備を始めることで、後継者の確保や業務の引き継ぎに十分な時間を確保しやすくなります。ただし、この期間はあくまでも目安であり、売却に一律で必要な年数ではありません。後任候補の採用や業務の引き継ぎには時間がかかるため、診療の縮小を始める前に取り組めると選択肢が広がります。
具体的には、院長だけが把握している取引先との連絡、採用判断、事務処理を整理し、担当者と手順を決めます。無理に医師を増やすのではなく、診療を任せられる範囲と経営事務を分担できる範囲を見極めましょう。
引退時期が具体化したら、共同診療の期間、院長の勤務日数、患者やスタッフに伝える順序を計画します。事業譲渡では開設や保険医療機関の指定に関する手続きも必要になるため、保健所・地方厚生局との調整を含め、診療が途切れない日程を組みます。
5-3. 売却代金を受け取った後の、税金と資産の置き場所まで決めておく
手取りを考える際は、税率だけでなく、入金と支払いの時期を整理します。代金が分割払いになったり、一定額が後日精算されたりする契約では、契約金額と当面使える現金が一致しません。
| 資金の用途 | 契約前に決めておきたいこと |
|---|---|
| 税金・費用・借入返済 | 支払額と期限を試算し、必要額を現金で確保する |
| 引退後の生活費 | 年金や退任後の収入を踏まえ、当面必要な金額を分ける |
| しばらく使わない資金 | 運用期間と許容できる値下がり幅を決めてから配分を検討する |
売却が成立しても、院長の個人保証が自動的に消えるわけではありません。金融機関の承諾や解除の時期まで確認し、受け取る金額と、退任後に残る義務の両方を確定させることが重要です。
6. まとめ
クリニックの売却では、「相場の範囲に入るか」よりも、自院の条件を織り込んだ価格と手取りを知ることが大切です。譲渡額だけでなく、診療の引き継ぎ、退任時期、売却後の責任まで合意できて初めて、生活の見通しを立てられます。
まずは決算書と契約資料をそろえ、希望する引退時期と残したい診療方針を整理しましょう。閉院を決める前に選択肢を比較することが、納得できる承継への出発点になります。
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