
(@日刊スポーツ)
「初心」と「志」
それは谷繁元信の野球人生を貫いてきた言葉だ。
高校1年で捕手に転向し、2年夏には甲子園で全国の壁を知った。高卒でプロの世界に飛び込んだものの、4年目になっても思うような結果を残せず、「このままでは契約を切られるかもしれない」という危機感と向き合う日々が続いた。
しかし、大矢明彦氏とともに歩んだ濃密な5年間で一人前の捕手へと成長し、1998年にはリーグ優勝と日本一に貢献。その後、中日ドラゴンズへ移籍し、45歳まで現役を続けて歴代最多3021試合出場という金字塔を打ち立てた。長く第一線に立ち続けられたのは、常に少し先の自分を見据えた目標設定と、「野球が好き」という変わらぬ気持ちがあったからだ。
本インタビューでは、捕手としての原点、「一人前」と認められるまでの苦闘、そして歴代最多出場を支えた目標設定と自己管理に迫った。
【プロへの道――甲子園で知った全国の壁と、捕手への転向】
━━高校1年生のときに捕手へ転向されていますが、当時はどのように受け止めていましたか
最初に捕手をやったのは、1年生の5月の連休明けからでした。ただ、その後に膝を痛めてしまったのでしばらくはファーストを守っていたんです。
しかし夏の大会が終わり、新チームになったタイミングで、監督から改めて捕手をやるように言われました。まあ、当時は「ノー」とは言えない環境でしたからね(笑)。
もともとは投手もやっていて、どうすれば打者を抑えられるかを常に考えていました。だから捕手になって、「このバッターをどう抑えようか」と考えることにも抵抗はなかったですね。
━━プロ野球選手になることを現実的に意識し始めたのは、いつ頃でしょうか
高校2年生の夏の大会が終わった頃からですかね。スカウトの方が来てくださるようになって、「もしかしたらプロに行けるかもしれない」と思うようになりました。
1年生の頃からプロ野球選手になる夢はありましたが、それまでは現実的に考えたことはなかったです。
━━高校2年生の夏には甲子園にも出場されています。その経験で、練習への意識は変わりましたか
甲子園に出られたことで、ちょっとした自信はあったんです。でも、横浜商業に完封負けしてしまったことは悔しかったし、全国のレベルの高さを肌で感じた経験でした。
当時の監督は本当に負けるのが嫌いな方で、そこからさらに厳しい練習が待っていました。
ただ、僕自身はプロに行くためというよりも、翌年の甲子園に出て、全国でも戦えるチームになりたいという気持ちの方が強かったですね。
━━秋から冬場にかけては、走り込みなど厳しい練習が続いたのでしょうか
秋の大会では島根県で優勝して、中国大会でもベスト4まで進みました。でも、選抜には選ばれなかったんです。
そこからさらに練習がきつくなりましたが、「夏は圧倒して勝ち上がろう」と気持ちを切り替えていました。
実際に夏の甲子園ではベスト8まで進むことができたので、全国でも戦えるチームになれたと思っています。

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【プロの厳しさを知った4年目――「一人前」と認められるまで】
━━現役選手時代を振り返って、最も困難だった挑戦は何でしたか
プロに入ってからの最初の数年間ですかね。
1年目から3年目くらいまでは、与えられた練習を困難だとも思わず、がむしゃらに取り組んでいました。「自分ならプロでもやっていける」という、根拠のない自信があったんですよね。
でも、4年目くらいになると、思い描いていたような成績も残せていないし、周囲からの評価も得られていないと感じ始めたんです。このままでは契約を切られるかもしれないという危機感もありました。
心の底からプロ野球に取り組み始めたのは、その頃からだったと思います。
━━高校卒業後、プロ入りしてすぐに活躍されていた印象があったので、少し意外です
5年目くらいから試合で使ってもらえるようになったんですが、どこか信用されていないように感じていました。
もちろん、それは自分の力が足りず、結果を出せていなかったからなんですけどね。
━━ここまでのキャリアの中で、特に影響を受けた指導者はどなたですか
大矢明彦さん(横浜DeNAベイスターズなどの元監督)ですね。4年目くらいから、ずっと付き添うように指導していただきました。
特に5年目から9年目までの5年間は、3年間をコーチとして、2年間を監督として指導していただきました。
5年かけて、ようやく一人前というか、多少は認めてもらえるだけの実力がついてきて、成績も徐々に上がってきました。
僕にとって、本当に濃い5年間でしたね。
━━捕手というポジションは、経験を積み重ねることも重要だと思います。一方で、プロとして結果を求められる難しさもあったのではないでしょうか
ある程度、「これなら認められるんじゃないか」という数字を残しても、それでもなかなか認められないんです。
なぜかというと、他球団には僕よりも優れた捕手がたくさんいるからです。どうしても、そういう選手たちとの比較になりますよね。
1998年に優勝できて、ベストナインとゴールデングラブ賞の両方を受賞したときに、ようやく一人前になれたという感覚がありました。
【30歳を超えて決断した新たな挑戦――メジャーではなく中日を選んだ理由】
━━2001年にはメジャーリーグへの挑戦も取り沙汰されましたが、最終的には中日ドラゴンズへの移籍を決断されました。メジャーに行かなかったことに悔しさや心残りはありますか
悔しさや心残りは全くなかったですね。
当時、フリーエージェント宣言をしたのは、ベイスターズが嫌になったからではないんです。ただ、球団との考え方に少しズレがあったことも事実でした。
30歳を超え、「あと何年現役でやれるだろう」と思ったときに、環境を変えたほうがいいのかもしれないと思ったんです。
実際にメジャーリーグの球団からもお話はいただいていました。ただ、提示された契約内容は、当時の最低保証年俸に近い、かなり低い金額だったんです。
それなら、無理にアメリカにこだわる必要はないと考え、国内でいいオファーがあれば、そちらを選ぼうとエージェントとも話していました。
それで最終的にお世話になることになったのが、中日ドラゴンズです。ドラゴンズは「いつまでも待つ」と言ってくださって、決断したのは12月とかなり遅い時期になりました。
そういう経緯だったので、メジャーに行かなかったことへの心残りは全くありません。

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【歴代最多3021試合を支えたもの――目標設定と自己管理】
━━長い現役生活の中で、どのようにモチベーションを維持してきたのでしょうか
モチベーションの保ち方は、年齢とともに変わっていきましたね。
レギュラーになって、ある程度実績を残せるようになってからは、「どうやって優勝するか」ということが一番の目標でした。そこに自分自身の成績をプラスして考えていました。
その目標に向けて、身体のケアや強化にも取り組みながら、2年後、3年後の自分の姿を想像してやっていました。
━━1998年には攻守の柱として、リーグ優勝と日本一に貢献されました。そのシーズンは、キャンプの時点から優勝への手応えがあったのでしょうか
前年までに優勝争いができるようになって、チームとして少しずつ力がついてきているのを感じていました。
前年は2位でしたが、「優勝を目指せる」という感覚はありましたし、チーム全員が同じ目標を持てていたことが強かった要因だと思います。
それまでは、自信をつけては打ち砕かれることもありましたが、チームが強くなってきていることを実感できていましたね。
━━2007年頃までは、大きなケガも少なかった印象があります。身体づくりやコンディション管理で心がけていたことはありますか
トレーニング量を増やした時期もありましたし、その後、身体の状態を維持する段階になってからも、目標設定をしながら取り組んでいました。
40歳になる少し前からは、食事を制限すること自体にストレスを感じるようになったんです。
もちろん、ある程度の食事制限はしていましたが、それがストレスになりすぎないように、必要なものはしっかり食べるようにしていました。
━━2008年以降は何度かケガを経験しながらも、復帰を果たされています。リハビリ中はどのようなことを意識していましたか
例えば、下半身をケガしたとしても、上半身は元気ですよね。
だから、下半身のリハビリをしながら、上半身はできる限りのトレーニングをする。そうやって全体のバランスを考えながら取り組んでいました。
ただ元の状態に戻すのではなく、復帰したときには以前よりパフォーマンスが上がっているように心がけていました。
━━歴代最多となる、3021試合出場という記録を打ち立てられました。これほど長く第一線で活躍された要因は、どこにあると思いますか
その時々での積み重ねてきたことが、大きかったのかもしれません。
「何歳まで現役で続けたい」ということは、あまり考えていなかったんです。それが良かったのかもしれませんね。
常に少し先の自分を見ながら取り組んできた結果、45歳まで現役を続けることになったのだと思います。
━━長い現役生活を通じて、変わらず大切にしてきたことはありますか
初心に戻る、というのとは少し違うのですが、もともと野球が好きでプロの世界に入ってきたわけですから。
その「野球が好き」という気持ちを忘れないようにしていました。
野球に対して真剣に向き合う気持ちは、ずっと持ち続けていましたね。
谷繁元信インタビュー 後編「初心」と「志」 歴代最多3021試合出場を支えた名捕手の“準備”は11月16日公開
〈プロフィール〉

谷繁 元信(たにしげ もとのぶ)
1970年12月21日生まれ。日本の元プロ野球選手(捕手)、元プロ野球監督。広島県比婆郡東城町(現庄原市)出身。
島根・江の川高校(現・石見智翠館高校)では3年夏の甲子園でベスト8に進出。ドラフト1位指名を受け、1989年に横浜大洋ホエールズに入団。大矢明彦氏の指導のもとで正捕手の座をつかみ、1998年にはリーグ優勝と日本一に貢献し、ベストナインとゴールデングラブ賞を受賞した。
2002年にFAで中日ドラゴンズへ移籍し、扇の要として4度のリーグ優勝と2007年の日本一を支えた。2006年WBC日本代表として初代世界一にも貢献。2013年に通算2000本安打を達成し、2014年からは選手兼任監督を務めた。2015年に現役を引退。通算3021試合出場はNPB歴代最多記録である。
