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千葉真子インタビュー 前編 「自分の人生の主役は自分」涙も出ないほどの挫折から、再び前を向けた理由

どん底の挫折を乗り越え、「夢力」を胸に走り続ける元日本代表ランナー・千葉真子さんの軌跡。

高校から本格的に陸上を始め、1997年アテネ世界陸上1万メートル、2003年パリ世界陸上マラソンでメダルを獲得するなど、日本を代表するトップランナーとして活躍した千葉真子さん。

度重なる怪我やオリンピック代表落選といった大きな挫折を経験しながらも、どのように前を向き、結果を出し続けてきたのか。その強さの秘訣と、50歳から指導者として踏み出した新たな挑戦についてお話を伺いました。


【原点と選択 ― 陸上との出会いと最初の壁】

高校で陸上部に入ったことですかね。周りは本当にレベルの高い選手ばかりで、初日の練習から全くついていけませんでした。翌日は筋肉痛で、足の裏にマメが5つくらいできていて、「とんでもないところに来ちゃったな」と心が折れましたね。

それでも、自分で選んだ高校でしたし、「陸上をやりたい」と思って入ったので、簡単に辞めるわけにはいきませんでした。当時は女子の長距離部員が30人以上いて、その中でレギュラーは5人。AチームとBチームに分かれていて、毎日Aチームに挑戦するんですが、全然ついていけない日々でした。

中学ではテニス部でした。引退後に、「駅伝の人数が足りないから」と声をかけてもらったのがきっかけで長距離を始めました。本格的に陸上に取り組んだのは高校からですね。

練習は本当に辛くてきつくて。グラウンドの横にサッカーゴールがあったんですが、「あそこにぶつかって鼻血でも出たら休めるかな」なんて考えながら走っていました(笑)。

軌道に乗るまでは苦しい毎日でしたけど、コツを掴んでくると「自分にもできるんだ」と思えるようになりました。やっぱり新しいことに挑戦するときって、最初は必ず苦しいものだと思うんです。

でも、そこを少し我慢して乗り越えることが大事なんだと感じました。


【キャリアの転機 ― 競技としての自覚と選択】

高校3年生くらいですね。ようやく結果が出るようになってきて、もっと自分の可能性を試してみたくなりました。

子供の頃は、特にスポーツの習い事はしていませんでした。バイオリンを習っていて、当時は音楽の道に進むのかなとも思っていました。ただ、外で遊ぶのは好きで、元気に走り回るタイプではありました。

水泳で心肺機能を鍛えることや、短距離走のようなスプリントトレーニングなどがもしできていたら、とは思いますね。

初めての世界陸上は1997年のアテネ大会で、その頃は若さと勢いもあって、1万メートルでメダルを取ることができたんですが、その後フルマラソンに転向してからが大変でした。

単純に距離が4倍近くになるのでその分練習量も増えますし、怪我も重なってなかなかスタートラインにも立てない時期が続きました。初めてマラソンの大会に出られたのも2年後くらいで、自分にマラソンの適性があるのか分からない状態でしたね。

マラソンに挑戦してから約6年かけて、2003年のパリ世界陸上でようやくマラソンで銅メダルを取ることができました。1997年から2003年は、自分にとって本当に苦しい時期で何度も辞めようかと思いましたが、もう一度世界に返り咲きたいという夢を力に自分を奮い立たせました。

そうですね。スタートラインに並ぶと、まず体格の違いには驚きましたね。足の長さも全然違って、「こんな人たちと走るのか!」と感じることもありました(笑)。

でもそれ以上に印象的だったのは、海外の選手はすごく前向きなんです。海外のレースで、ある選手と同部屋になった時に、「練習に行ってくるね」と言ったら「エンジョイ!」って送り出してくれて。

それまで練習は「苦しくて辛いもの」という感覚だったので、その一言はとても新鮮で、「なるほどね」みたいな衝撃を受けました。

フルマラソンは、いきなり42キロを走れるものではないので、段階的に距離を伸ばしていく必要があります。高校時代は駅伝の6キロが最長でしたし、そこから少しずつ距離を伸ばしていきました。

もともといつかはフルマラソンをやりたいという気持ちがあって、その過程で1万メートルにも取り組んでいたんですが、結果的に1万メートルでもメダルが取れた、という感じですね。人生面白いものです。

コロナ禍で一度落ち込みましたが、今はまた人気が戻ってきていると感じます。マラソンは、努力した分だけ結果に表れる競技で、いわば人生の縮図のようなものだと思います。

それに五感がすごく刺激されるんですよね。3月に、ゆめしま街道いきなマラソンを走ったんですが、景色がすごく綺麗で、空気が澄んでいて、空や山の色がすごく鮮やかで、そして人も温かくて、食べ物もすごく美味しくて。非日常を味わえるんです。

地域の皆さんとの交流も含めて、こういう体験ができるのがマラソンの魅力の一つだと思います。


【自己マネジメント ― 結果を生む思考と意思決定】

オリンピックや世界大会といった大きな目標はもちろんありましたが、まずは目の前の「今できること」をコツコツ積み重ねることを大事にしていました。その積み重ねが、最終的に大きな結果につながると考え、努力を楽しむ気持ちを大切にしていました。

練習ではメリハリをしっかりつけることを意識していました。私生活も競技に直結するので、常にマラソン中心で考えて、プラスになる行動を選ぶようにしていましたね。

睡眠や食事、体のケアなど、すべての面でコンディションを整えることは常に意識していました。

最初からうまくいくことは少ないと思うんです。だからこそ、自分なりに工夫しながら、一つひとつ課題を解決していくことが大事だと思っていました。

トラック競技からマラソンに転向した頃は、怪我がずっと続いていて、2年近くほとんど走れない状態だったんです。そこで、これまでとは違う環境に身を置いてみたいと思ったんですね。

ちょうどその時、2000年のシドニーオリンピックで高橋尚子さんが金メダルを獲得されて、「あの監督と選手のもとでやってみたいな」と思ったんです。小出監督とは何のつながりもなかったのですが、知人をたどって何とか連絡先を教えてもらって、自分からお願いしました。

そうですね(笑)。自分から「入れてください」と言ったものの、実際に入ってみると、高橋直子さんと同じ練習メニューは想像以上にハードで、毎日が全力でヘトヘトでした。疲労も抜けず、慢性的な疲労状態になってしまって、頑張れば頑張るほど、私はどんどん走れなくなっていきました。「これでいいのだろうか」と思いながらも、自分でお願いして入ったので、弱音を吐くわけにもいかなくて。2年ほど経った頃に、さすがにこのままでは無理だなと思って、「練習メニューを一緒に考えさせてください」とお願いをしました。その時に「あと2回レースで結果が出なければ引退します」とも伝えました。そこからは、1日に2回全力で追い込む練習を、1日1回に変えたんです。

そうなんです。1回目のシカゴマラソンでは、過去最低の記録で全く走れませんでした。そして次が本当にラストチャンスという状況で、ようやく結果が出たんです。

2003年の大阪国際女子マラソンで自己ベストを大幅に更新して、パリ世界陸上への切符をつかむことができました。

今振り返ると、結果はすぐに出るものではないと感じます。どうしても人はすぐに結果を求めてしまいますが、積み重ねたものが少しずつ形になって徐々に表れるものなんですよね。あのきつかった最初の2年間も、小出監督がずっと信じて待ち続けてくれたからこそ、結果に繋がったのだと思います。

常に「自分が何を成し遂げたいのか」という夢や目標が根底にありました。それがなかったらきっと気持ちが折れてしまっていたと思います。

小出監督はよく「せっかくだから」という言葉を使われていて、「怪我をしたんだから、今のうちにこれをやっておこう」と前向きに捉えさせてくれたんです。その言葉にはすごく救われました。

千葉真子インタビュー 後編 「自分の人生の主役は自分」涙も出ないほどの挫折から、再び前を向けた理由(2026/6/15公開)


〈プロフィール〉

千葉 真子(ちば まさこ)

1976年7月18日生まれ。日本の元陸上競技選手(長距離走・マラソン)。京都府宇治市出身。
宇治高校(現・立命館宇治高校)を卒業後、実業団の旭化成に入社。トラック競技で活躍し、1996年のアトランタ五輪10000mで5位入賞。翌1997年の世界陸上アテネ大会では10000mで銅メダルを獲得し、日本女子トラック種目初のメダリストとなる。
マラソンへ転向後は2003年世界陸上パリ⼤会の⼥⼦マラソンで銅メダルを獲得し、世界陸上においてトラックとマラソンの両種⽬でメダルを獲得した⽇本初の選⼿となった。2004年と2005年には北海道マラソンで連覇を達成。2006年の現役引退後は、スポーツコメンテーターやゲストランナーとして陸上競技の普及に幅広く貢献している。

FPメディア編集部

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