※本ページ内の情報は2026年7月時点のものです。

大阪を拠点に、関西・東海エリアで100店舗を超える食品スーパーマーケットを展開する株式会社コノミヤ。1957年の創業以来、地域の食卓を支えてきた老舗である。
その舵を取るのが、創業者を父に持つ2代目・代表取締役社長の芋縄隆史氏だ。32歳の若さで社長に就任。掲げてきたのは「毎年1.15倍、33年で売上高を100億円から1兆円へ」という、常識を超えた成長設計だった。しかも就任から約20年、その115%成長を実際に達成し続けてきたという。
だが、その苛烈な数値目標の裏側で芋縄氏が一貫して語るのは、「人を大切にする経営」だ。買収先の従業員も、自社の社員も、リストラせず、活かす。近年はスーパーマーケットの枠を超え、牧場や電力会社までを傘下に収めるコングロマリット化を進めながらも、その判断軸に置くのは「お金儲け」ではなく「大義」だという。
20歳で人生の全設計図を描いた原点から、「心のM&A」という哲学、そして自らを「わが社最大のリスク」と言い切る次世代への継承まで。異色の経営者の頭の中に迫った。

1. 「継ぐしかなかった」食卓での覚悟と、20歳で描いた人生設計図
――幼少期からスーパーマーケットが身近にあったと思います。当時、どのように感じていましたか。
芋縄: 両親が共働きで、二人ともスーパーマーケットの仕事をしていました。だから自分も手伝いたいという気持ちは自然にあったのですが、まさか本当に店で働かされるとは思っていませんでしたね。
小学3年生の夏休みから、青果の販売や商品の陳列を手伝うようになりました。夏休み、冬休みのたびに店に立つ、というのがそこから続いていったんです。

――お店に同級生が来ることもあったのではないでしょうか。
芋縄: それがもう、恥ずかしくて仕方なかったんです。果物を売ったり食品を並べたりしているところに、同級生の女の子が来店するでしょう。「頑張ってるね」なんて声をかけられて、「なんか買ってあげようか」みたいな話にもなって(笑)。顔から火が出る思いでしたよ。
それでも、頑張らないといけないなと自分に言い聞かせながらやっていました。今思えば、あれが商売の最初の原体験だったのかもしれません。
――成長とともに、店舗が増えていく様子も間近で見ていたわけですね。
芋縄: 手伝いを始めた小学3年生の頃は1店舗、6年生で2店舗目、高校1年生で3店舗目ができました。会社が大きくなっていく姿をずっと見ていましたが、同時に、その裏で父がどれだけ苦労していたかも見ていました。資金繰りに困る時期もありましたし、そんなとき父がどう考え、母がどう支えていたか。経営の光の部分だけでなく、影の部分も、子供ながらに肌で感じていたんです。
――いつ頃から「自分が継ぐ」という意識を持たれたのでしょうか。
芋縄: 「継ぐぞ」と自分で決意したというより、家族でご飯を食べるたびに、父から「次はお前がやるんや」と言われ続けて育ったんです。だから、それ以外の道はないものだと、ごく自然に思い込んでいました。

――大学時代には、将来の設計図まで描かれていたとか。
芋縄: 大学2年生、20歳のときに、自分のライフプランを紙に書いたんです。今でこそ大谷翔平選手のマンダラチャートなどで一般的になりましたが、当時は珍しかったと思います。
当時の会社員の定年はだいたい55歳でしたから、20歳から10年刻みで、30歳、40歳、50歳、60歳と区切って、何歳で結婚して、子供は何人で、そのときはどんな車に乗っているか。そこまで具体的に書きました。この20歳での設計図づくりが、後の経営にそのまま生きてくることになります。
――では、卒業と同時に迷いなく家業へ、という流れだったのですか。
芋縄: それが、そう単純でもなかったんです。当時の設計図には「5年から10年は他社で修行する」と書いていました。ところが大学4年生の春、父に就職の相談をしたら「勝手にしなさい」と突き放されまして。それで就職活動をして、大手百貨店や大手スーパーなど複数社から内定をいただきました。
内定確定が8月20日でしたが、その前日、19日に父から突然「関西スーパーマーケットへ行きなさい」と修行してくるように言われました。結局コノミヤには大学4年生の12月に入社し、すぐに関西スーパーマーケットで半年間修行をする。それが私の社会人のスタートでした。
2. 父の病、そして社長秘書へ。飛び込みで学んだ「壁を作らない」流儀
――修行先のスーパーでの研修は、どのようなものでしたか。
芋縄: そのスーパーは、生鮮食料品と食料品のスペシャリストです。そこで6か月間の新入社員研修を受けました。研修が終わる頃、人事の方から「これからどうする」と言われたんです。青果をやるのか、精肉をやるのか、専門を決めようという趣旨だったのですが、私はそれを「もう辞めろ」と言われていると勘違いしてしまって。「じゃあ帰りますわ」と、勝手に帰ってきてしまったんです。
――それは……思い切った行動ですね。
芋縄: 当然、父にはこっぴどく叱られました。「次は衣料品の勉強をあの店に頼もうか、こっちの店にするか」と、次の研修先を探していた矢先のことです。父が海外出張から帰ってきたところで、脳梗塞で倒れ、入院することになったんです。
しかも、社長が倒れたことは社外には秘密にしなければならない。そこで私が社長秘書のような形で、病院の父と社内をつなぐメッセンジャー役を担うことになりました。
――結果的に、それが早期に経営を学ぶ機会になったと。
芋縄: そうですね。父から指示を受けて社内に伝え、実行してもらい、結果をまた父に報告する。この橋渡しを続けたことで、会社の実務と意思決定の流れを、若いうちに全部見ることができた。現場に配属される前に経営側の視点を持てたのは、今振り返るとむしろ良かったと思っています。
――その後、衣料品バイヤーを任されたそうですね。
芋縄: 父が回復してから「衣料品のバイヤーをやりなさい」と。ただ、私は衣料品のことなど右も左もわからない。だから、商店街の服屋さんに片っ端から質問しに行きました。買い物もしないのに質問ばかりするので、「お前どこのもんや」と怒られることもありました(笑)。
衣料品大手の本部にも、いきなり電話をかけて「衣料品のことが全然わからないので教えてください」と訪ねていったんです。とにかく壁を作らず、パートさんにもお客さんにも聞いて回りました。要は、お客さんが求めるものをきちんと品揃えして売ればいい、という単純な話なんですけどね。
――成果はいかがでしたか。
芋縄: 何もわからない人間がやっているのに、毎月120%くらい伸びたんです。その働きが認められて、衣料品だけでなく食品を含む全部門の活性化を担う販売促進部へ異動することになりました。
あのとき助けてくれた方々には、本当に感謝しています。衣料品大手の会社でいろいろ教えてくださった方は、後に副社長になられました。

3. 「1.15倍を33年」褒め言葉を拒み、絶対評価で自分を追い込む
――販売促進部の頃は、かなり強烈な仕事ぶりだったと伺いました。
芋縄: 正直に言うと、当時の私は「偉そう」でした。小学校の頃から、先生より自分のほうが偉いと思っているような子供でしたから(笑)。会社に入っても、新入社員なのに経営者のような気分でいて、年上の店長にも強い物言いをする。上司から「もうあんた代わって」と言われて上司と役職を交代したこともあります。
周囲には本当に迷惑をかけました。ただ、事業を動かすのは、結局は情熱と強い意志、そして熱量なんです。それがなければ、人も物も動かせない。そのことは、あの頃に体で学びました。
――32歳での社長就任にあたり、プレッシャーはありましたか。
芋縄: 全くなかったんです。
というのも、28歳の時から、父が不在の時が多かったので、「お前が代表印を押しておけ」と実印を預けられて。社内の決裁も、銀行との交渉も、出店の決定も、実務は全部私がやっていたんです。
ですから32歳で肩書きがついても、実務は変わらない。ただ、社長という肩書きができた瞬間、取引先も社内も、みんなが私を見る目が変わったな、とは感じました。
――その後の成長戦略について教えてください。
芋縄: 20歳で人生設計図を書いたのと同じことを、社長になってからもやりました。32歳から65歳までの33年間を4つのクォーターに分けて、就任時に100億円だった売上高を、33年後にいくらにするかを考えたんです。
パソコンで試算しました。年率2倍では、複利で膨れ上がって現実離れした数字になる。1.5倍でも15〜20年で1兆円に届いてしまう。1.3倍、1.2倍と下げていって、1.15倍の複利成長なら、33年で100億円が100倍の1兆円になる。「これだ」と思いました。

――なぜ、そこまで高い目標にこだわったのでしょうか。
芋縄: たとえば業界平均が101%成長の年に、うちが103%成長すれば、周りは「コノミヤさんはよく頑張ってますね」と褒めてくれる。でも、それでいいのかと。他人と比べる相対評価で満足していたら、本当に成長できているかどうかは見えないんです。
だから私は、自分が立てた目標に対してどうだったかという絶対評価で自分を測ることにしました。うちの決算は8月ですが、その日に115%を達成できていなければ、「今年の自分はダメだった、遊んでいた、もっと頑張らないといけない」と、何がダメだったのかを客観的に洗い出して、自分を叱咤するんです。
――実際の成果はいかがでしたか。
芋縄: 就任からおよそ20年間は、ずっと115%成長を続けられました。ただ、就任から29年が経ち、分母が大きくなるにつれて、さすがに成長の維持は難しい時代に入ってきています。それでも歩みは止めていません。
近年はM&Aによって、スーパーマーケット以外の領域へ広げているところです。牛肉の牧場、電力会社。いわゆるコングロマリット化ですね。100倍という目標を諦めたわけではありません。良い機会があれば、これからも積極的にM&Aを仕掛けていきます。
4. 「心のM&A」一本の映画と、人的資本経営
――芋縄社長は「心のM&A」という言葉を掲げていらっしゃいます。その原点は何だったのでしょうか。
芋縄: 少し意外に思われるかもしれませんが、『プリティ・ウーマン』という一本の映画なんです。実はあれ、M&Aが物語の背景になっているんですよ。リチャード・ギア演じる主人公は、買収した会社の良い部分だけを切り取って、あとは解体してしまえばいいという考えの持ち主でした。お金のためだけに動く、そういうビジネススタイルだったんです。
ところが物語の最後、彼は買収先に「一緒に会社を立て直しましょう」と伝える。人格が変わっているんですね。相手を思いやる気持ちの大切さ。あの映画を見ていてそう感じたことが、私の考え方の原点にあります。

株式会社エスアンドエス(2017年グループイン)
――M&Aの判断基準としても、独自の軸をお持ちだとか。
芋縄: お金儲けだけが目的の話は、正直、気が乗らないんです。それよりも、その案件に「大義」があるかどうか。当初は「やらない」と決めていた事業でも、大義が明確になったことで方針を変えたことがあります。儲かるとわかっていても、大義がなければやらない。それが、私の言う「心のM&A」なんです。
今後の展開先としては、食に関わる産業に注目しています。スーパーマーケットやドラッグストアといった物販はもちろん、できればバリューチェーンの上流、一次産業や加工の領域へ進んでいきたいと考えています。

株式会社スーパーおくやま(2020年グループイン)
――アメリカでの実体験も影響しているそうですね。
芋縄: 大学卒業後から毎年、アメリカへスーパーマーケットの視察に通っています。アメリカではM&Aが日常的で、スーパー同士の買収も活発でした。あるチェーンが競合を買収した際、大規模なリストラを断行したんです。
ところが、解雇された従業員はスーパーで働くしか道がなく、結局は近隣の競合店に流れていった。その人たちが競合店で頑張るものだから、皮肉にも買収したチェーンのほうが、その地域で振るわなくなってしまった。人をリストラしても良い結果には繋がらない。アメリカでさえそうなら、日本ではなおさら、人を大切にする経営をしなければならないと痛感しました。

株式会社トミダヤ(2020年グループイン)
――その考えは、以前からお持ちだったのですか。
芋縄: 実は、私が学生時代に書いた卒業論文のテーマが、人的資本経営だったんです。ゼミで『エクセレント・カンパニー』という本を学びました。アメリカの優れた企業は、人を大切にしながら経営している。
ならば日本でも、資本としての人間をどう活かすかが大事なのではないかと。人は感情の動物で、やる気があるかないかで、同じ仕事でも成果が2〜3割は変わります。だからM&Aでも、売上が伸びずに苦しんでいた会社に対して、私たちが売上の上げ方を教えてあげる。すると、みんな成績が良くなって元気になる。そうやって伸ばしてきたんです。
――自社の働き方改革でも、その哲学が貫かれていますね。
芋縄: そんなに難しいことはしていません。自分がしてほしいことを、社員にもする。それだけです。私が入社した頃は週休1日制でしたが、「週休2日のほうがいいよね」と自分が思うなら、社員もそう思っているはずだと。
いきなりは難しいので、隔週2日を経て完全週休2日にしました。夕刊で「グアム39,800円」といった広告を見て、自分が行きたいと思うなら社員も行きたいはずだと、6連休・7連休の制度も作りました。労働時間も8時間から、今では実質6時間50分まで短縮し、残業ゼロを実現しています。
――労働時間の短縮と残業ゼロを、どう両立させたのですか。
芋縄: コツは、賃金の設計を先に直したことです。社員に聞くと「残業を減らすと給料が減って、家族に怒られる」と言うので「定時で帰っていいから、残業分は全部つけてある」と伝えたら、みんな帰るんですよ。
本当は10時間かけていた仕事が、8時間で終わる。次に、労働時間を7時間、6時間50分に減らしても給料は下げない、と決めたら、やっぱりみんな早く帰る。それで業務に支障が出るかというと、出ないんです。要は、自分が社員だったらどうしてほしいかを考えて、それをルール化し、具現化するだけの話なんです。
――「ホウレンソウ(報連相)ノート」というユニークな仕組みもあるそうですね。
芋縄: 社員やパートさん一人ひとりに、大学ノートを1冊ずつ渡しているんです。現場で気づいたことや困っていること、提案を書いてもらい、私が目を通して返す。交換日記のようなものですね。
「今こんなことで困っています」「もっとこうしてほしい」と書いてくる。それに対して「じゃあやってみなさい」と背中を押したり、改善すべきところは改善したり。私にとっては、現場のリアルな情報が詰まった“ネタ帳”です。現場からの声を吸い上げる仕組みが根っこにある。これが、功を奏していると感じています。

5. 「わが社最大のリスクは社長」独裁を手放し、連邦経営へ
――これまで強力なリーダーシップで会社を牽引してこられました。今後の課題をどう見ていますか。
芋縄: 「コノミヤのリスクは何ですか」と聞かれたら、私はいつも「社長です」と答えるんです。強いトップというのは、良くも悪くも独裁的になりがちです。私はとにかく人の言うことを聞かず、自分が良いと思った方向へ突き進んでしまうタイプですから。
改革というのは、小さな改善の積み重ねだけでは到達できない。大きな一歩を一気に踏み出すしかない。そういう考えでやってきました。ただ、それが通用するのはある規模までなんです。
――規模の拡大が、経営のあり方を変えると。
芋縄: 100店舗を超えて、200店舗、300店舗となり、スーパーマーケット以外の新規事業も出てくる。そうなると、トップ一人の目が末端まで届かなくなります。
これまでのような、トップダウン方式は、もうやめて組織集団へと変えていく。それが今、うちの最大の課題です。もちろん一気にはできませんが、少しずつ進めています。
――常務でもあるご子息には、どのような役割を期待していますか。
芋縄: この5年ほど、一緒にあらゆる決断を重ね、将来像も二人で話し合ってきました。目線は完全に一致していると思います。ただ、キャラクターは違うんです。組織を変えようと言っているのに、強引に引っ張っていく経営をしていたら、話が矛盾してしまう。
私のリーダーシップで動かせる範囲と、そうでない範囲がある。息子の代では、連邦経営、組織経営へと移っていい。いや、移るべきだと思っています。彼のキャラクターは、むしろその新しい経営に合っている。外部から有能な人材を登用する選択肢も含めて、内部育成と両輪で考えていきたいですね。

――最後に、経営者としての人生観をお聞かせください。
芋縄: お金はあるに越したことはありませんが、お金を持つことで失うものもあります。莫大な財産を手に入れた人を見ても、本当に幸せなのかなと思うことがある。
私はそこそこで良いんです。それよりも、自分と関わる人たちが元気になったり、笑顔になったりすることのほうが、人間としての幸せだと感じるんです。私自身、これまで十分に良い経験をさせてもらってきました。この幸せをどう世の中に返していくか。60歳を過ぎた今、それを考えるべき時期に来ていると思っています。
〈プロフィール〉

芋縄 隆史(いもなわ たかし)
株式会社コノミヤ 代表取締役社長
1965年生まれ、大阪府出身。スーパー「コノミヤ」の長男として育つ。関西大学卒業後、1987年に株式会社コノミヤへ入社。関西スーパーマーケットへ出向し、6か月間の新入社員研修を経て、衣料品バイヤー、販売促進部などを歴任。28歳で取締役、1997年、32歳の若さで代表取締役社長に就任した。「毎年1.15倍、33年で売上高を100倍にする」という成長設計を掲げ、就任後およそ20年にわたり年率115%成長を継続。近年はスーパーマーケット事業に加え、牧場・電力会社などをM&Aで傘下に収め、コングロマリット化を推進する。「心のM&A」と人的資本経営を経営の軸に据え、残業ゼロや「ホウレンソウノート」といった独自の制度で従業員満足度の向上に取り組んでいる。
